キリルとの話が一段落すると、広いベッドルームには沈黙が訪れた。この部屋の主であるキリルはまだ驚きを引きずっていて、葵が発した言葉に対する反応は返ってきていない。だがキリルからの返事を待つことはせず、葵は行動を起こした。
「ちょっと待ってて」
呆けているキリルにそう言い置くと、葵はベッドから下りて隣室へと続く扉に向かった。ベッドルームから扉一枚で繋がっている隣室にはオリヴァーの姿だけがあり、葵は辺りを見回しながら彼の傍へ寄る。
「ウィルは?」
アルヴァの診察が終わった後、オリヴァーと共にベッドルームにやって来たウィルの姿が、今は見当たらない。葵の疑問に帰ったと答えて、オリヴァーは話を続けた。
「キル、目が覚めたみたいだな?」
「うん。もしかして、あっちで話してるの聞こえた?」
ベッドルームを指差しながら、葵は苦い気持ちで質問を口にした。思い返してみればキリルとの会話は決して静かなものだったとは言えず、隣室に声が聞こえていたとしても不思議はない。軽く頷いた後、オリヴァーは口を開いた。
「言い合いをしてるのは聞こえたけど、内容までは聞こえてないから安心していいぜ」
どうやらオリヴァーは気を遣って、葵が出て来るまでここで待機していたらしい。そのことを察した葵は先程のキリルとの会話も相まって、複雑な気持ちになった。こうして気を遣われるとかえって、先程の会話がやましいもののように思えてくるからだ。真顔のままでいるオリヴァーに弁明をした方がいいのだろうかと考えていると、ベッドルームの方から大きな音が聞こえてきた。何かが落下したような鈍い音に、葵とオリヴァーはハッとする。席を立ったオリヴァーが先にベッドルームへ向かったので、葵もその後に従った。
ベッドルームに移動した葵とオリヴァーが目にしたのは、ベッドの脇に倒れているキリルの姿だった。オリヴァーが慌てて駆け寄り、キリルの体を助け起こす。葵がその後ろから覗きこむと、キリルは目をぱちくりさせていた。
「キル、大丈夫か?」
「……落ちた」
「は?」
キリルの言葉は説明にもなっておらず、オリヴァーが対応に困っている。つい先刻、行動を起こそうとしてベッドに逆戻りしたキリルの姿が蘇って、葵はその時の状況をオリヴァーに説明した。おそらくキリルはベッドから下りようとして、体に力が入らずにそのまま落ちてしまったのではないだろうか。葵からそうした推測を聞くと、オリヴァーは納得したように頷いて見せた。
「やっぱり本調子とはいかないみたいだな」
無理をするなと諭しながら、オリヴァーはキリルの体をベッドに戻す。自分がベッドから落ちたことが信じられずに呆けていたキリルも、しばらくすると我に返ったようだった。
「何なんだよ!」
自分の体が思い通りに動かない苛立ちを滲ませて、キリルが吐き捨てるように言う。顔は怒りで紅潮していても、ベッドに背をもたれかけている彼は病人そのものに見えた。心配になった葵は共にベッド脇で佇んでいるオリヴァーを仰ぐ。オリヴァーは微かに眉根を寄せて、キリルの様子を観察しているようだった。
「どう?」
今の葵には見えないが、キリルは普段、体から炎のような魔力を立ち昇らせている。体に纏う魔力は十人十色で、親しい者になると魔力を見るだけで体調の変化や機嫌まで察することが出来るのだそうだ。そういったものを観察しているのだろうと思った葵は問いかけてみたのだが、オリヴァーは難しい顔をして首を振る。
「俺にはなんとも言えないな。キル、魔法は使えるか?」
「魔法?」
オリヴァーが何故そんなことを言い出したのか解らないようで、キリルは眉をひそめた。オリヴァーが簡略に現状を説明すると、そこで初めて、キリルは焦りらしき表情を浮かべる。やはり彼は何も考えずに行動していたのだと、葵は改めて実感した。
「基礎魔法でいいから、ちゃんと呪文を唱えて使ってみてくれ。ただし、くれぐれも慎重にな」
ちゃんと力加減もするのだとオリヴァーに言われ、キリルは固い表情で頷いた。ゆっくりと人差し指を立てると、彼は『ル=フュ』という基本中の基本である呪文を唱える。すると間もなくして、キリルの人差し指の先端に小さな炎が生まれた。ちゃんと魔法が発動したことにキリルを初め、葵とオリヴァーも安堵の息を吐く。
「魔法も大丈夫、みたいだな」
「良かったぁ」
キリルが無事に魔法を使えたということは、彼の家人も大丈夫ということになる。責任を感じていた葵はそのことにもホッとして、ようやく肩の力を抜いた。だがオリヴァーは、念のためと言い置いて言葉を重ねる。
「魔法は大丈夫でも体の方が心配だな。寝てれば回復するってものなのかも分からないし、今回のことはハーヴェイさんにも話しておいた方がいいと思うぜ」
オリヴァーが話題に上らせたハーヴェイ=エクランドはキリルの兄で、エクランド家の次期当主である。今回のことはキリル一人の問題ではないので葵もその方がいいと思ったのだが、当のキリルはハーヴェイの名を聞いた途端に顔を強張らせた。
「言う、のか?」
キリルは明らかに隠したがっていたが、オリヴァーは無理だろうと苦笑いを浮かべた。今回の騒動はエクランド公爵家が管理するセラルミド分校で起こったことであり、キリルはアルヴァの診察まで受けている。分校からかアルヴァからか、どちらにせよ遅かれ早かれハーヴェイの耳には入ってしまうだろう。それならば自分で説明した方がいいとオリヴァーが言うと、キリルは顔を引きつらせたまま固まってしまった。
「ハーヴェイさんには俺から連絡を入れておくから、キルはとりあえずゆっくり休め」
そこでキリルとの話を切り上げると、オリヴァーは葵の方へ顔を傾けた。オリヴァーから「行こう」と言われたので、葵は今一度キリルを見る。
「じゃあ、またね」
「……帰るのかよ」
わずかに顔をしかめたキリルは、とても寂しげに見えた。後ろ髪を引かれた葵はその場を動けなくなり、オリヴァーに視線を移す。視線に気づいたオリヴァーは葵に笑みを向けた後、キリルに向かって言葉を紡いだ。
「アオイはキルが倒れてからずっと、寝ないで看病してたんだぜ。今日のところは帰らせてやれよ」
「そうなのか?」
キリルが驚いた様子で目を向けてきたので、葵は決まりの悪い思いをして顔をしかめた。
「だって、私のせいだし。心配だったから……」
「すぐ帰れ。帰って寝ろ」
「……うん。また明日、来るから」
キリルが急かすようになったので、葵は今度こそ暇を告げた。キリルの寝室を後にすると、オリヴァーと二人で玄関に向かって歩を進めて行く。その中で、葵はオリヴァーに気がかりなことを尋ねてみた。
「キリル、怒られるのかな?」
誰に、とは言わずもがなだ。オリヴァーにもそれだけで伝わったようで、彼は苦笑を浮かべながら答える。
「まあ、家族を危険に晒したわけだからな。ハーヴェイさんの立場的にも、説教しないわけにはいかないだろ」
「……なんか、悪いことしちゃったな」
「キルが無鉄砲だったのは確かだからな。あとは家族の問題だから、俺達にはどうしようもない」
そんなに気にするなと葵を慰めた後で、オリヴァーは話題を変えた。
「それで、キルが持って来た物は役に立ちそうなのか?」
「ああ……これね」
葵がスカートのポケットから取り出したのは、小さなカプセルに詰められた細い針だった。キリルが精霊から奪い取った直後は剥き出しだったのだが、そのままでは危ないからと、オリヴァーが容器を用意してくれたのだ。しかしその用途は、まだ不明なままである。
「わかんない。でも、私が探してたものだって信じたい、かな」
「そうだな。今回、キルは頑張ったもんな」
「……うん。ねぇ、明日もお見舞いに来たいんだけど、連れて来てくれない?」
「いいぜ。大抵
「ありがと」
話が一段落したところでちょうど玄関先に描かれている転移用の魔法陣に辿り着いたので、葵はオリヴァーに送ってもらって帰宅をした。
Copyright(c) 2016 sadaka all rights reserved.