水底の変人

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 気がつくと、太陽の光が真上から注いでいた。ただしそれは真っ直ぐに降り注いでいるわけではなく、拡散した光だ。揺らいでいて、淡く、丸い。そして視界が、やけに青く染められていた。日の光だけでなく、体まで揺らいでいる感じがする。何故そう感じているのか、葵はゆらゆらと漂ううちに理解した。

(水の、中?)

 どうしてそんなことになっているのか分からないが自分は今、水の中から太陽の光を見上げている。そう認識しても、驚きや恐れはなかった。その理由は、水の中だというのに苦しさを感じなかったからだろう。現状はむしろ、とても心地が良い。

(ああ……何か……)

 この感じには、覚えがある。そう胸中で呟いた葵は懐かしさと切なさが綯い交ぜになったような気持ちで、ゆっくりと目を閉じた。だが瞼を下しても、瞳に映る景色は消えない。この感覚は、そう、精霊が世界に還る時と同じものだ。

 葵は以前、元精霊王だったという人物が世界に還る瞬間に立ち会ったことがある。あの時ほどはっきりと世界の光景が見えるわけではないが、溶けて混ざり合うような感覚はあの時と同じだ。だからこそ、思う。この場には精霊がいるのではないかと。

(私、池に落ちたんだよね?)

 記憶はおぼろげだが、落下する自分に向かって必死に腕を伸ばしてくれたオリヴァーの顔はよく覚えていた。ならばここは、あの青い池の中ということだろう。それにしては広さや深さなど辻褄が合わないことが多々あったが、葵はすぐに気にするのをやめた。この世界はそういうものなのだと、これまでの経験が物語っている。

(それはいいけど、どうしよう)

 再び目を開けると、水面は思いのほか遠そうだった。泳いでみようかとも思ったが、四肢は周囲の水に溶けてしまったかのように感覚がない。どうやらゆっくりと沈んでいるようだったので、早々に浮上を諦めた葵は流れに身を委ねることにした。

(ここにいるとしたら、やっぱり水の精霊かなぁ)

 炎の精霊は火蜥蜴サラマンダーだった。水の精霊は、どんな姿をして現れるのだろう。沈んでいく間、とりとめもなくそんなことを考えていると、僅かに開いた唇から気泡が立った。自らの呼気から生じたそれが水面の方へ上って行くのを、葵はぼんやりと目で追う。そのうちに、再び瞼が重くなってきた。

(気持ちいい)

 水の流れは緩やかで、ゆりかごに揺られているような心地になる。実際には葵にゆりかごの記憶などなかったのだが、体が覚えていたことが染み出していくかのように思考が拡散していった。その感覚は絶大な安心感でもって、心身を攫っていこうとする。だが瞼を下してしまうと、脳裏に警鐘が鳴り響いた。


――目を閉じてはいけない


(……え?)

 それは声というよりも、何者かの思考が割り込んできたかのような感覚だった。とっさに反応した葵は目を開けて周囲を窺ったが、瞳に映ったのは青だけだ。だが、聞き覚えのある声だったような気がする。

(誰だろう)

 記憶の糸を手繰ろうとすると、再び微睡みが押し寄せてきた。身も心も委ねて、流されてしまいたくなるような心地良さ。しかし目を閉じてはいけないらしいので、葵は必死に抗った。眠いけれど寝てはいけない。まるで昼食後の授業のような、妙な既視感を抱きながら。

 どの程度の時間を水の中で過ごしていたのかは分からないが、やがて青一色だった視界に変化が現れた。突然視界に入り込んできた物体に、驚いた葵は目を見張る。その拍子に口が大きく開いて、呼気が気泡となって溢れ出た。

(く、苦し……)

 大量の気泡が上って行った刹那、それまでの安寧が嘘のように息が詰まった。だが、その苦しみも長くは続かず、気がついた時、葵は固い地面の上で咳き込んでいた。呼吸が落ち着くと、今度は体の力が抜けて倒れこむ。もがき苦しんだことでかなりの体力を消耗したらしく、しばらく起き上がることが出来なかった。

(死ぬかと思った)

 ようやく思考が働くようになると、真っ先に押し寄せてきたのは恐怖だった。今更ながらに体も震えて、歯の根が噛み合わなくなる。だが、そんな葵の状態を見兼ねたかのように、手を差し伸べてくれる存在があった。

「……マト、」

 仰向けに転がった状態のまま顔だけ動かした葵は、自分の傍にマトがいることを確認した。先程、急に視界に入り込んできたように思ったのだが、見間違いではなかったようだ。マトは人間のように言葉を話すことは出来ないが、触れることで思いを伝えられる。落ち着かせてくれたマトに礼を言って、葵は体を起こした。それから改めて、周囲の様子を確認する。水音が響くこの場所は、どうやら地下空間のようだった。

「ここ、池の底だよね?」

 自分が池に落ちたことと、上方から滝のように落ちてくる青い水から推察すると、導き出される答えはそれしかない。抱き上げたマトから肯定の意が得られたので、葵は自分の置かれている状況を正しく理解した。すると、次なる疑問が湧いてくる。

「マトも池に落ちたの?」

 問いかけると、今度は否定の意が返ってきた。葵は足を滑らせて池に落下したのだが、マトは葵を追って自ら池に飛び込んだのだという。マトが助けに来てくれたことを知って、希望を抱いた葵は問いを重ねた。

「どうやって帰ったらいいと思う?」

「困るな〜」

 マトと話をしていたら突然、あらぬ方向から声が聞こえてきた。第三者の出現に驚いた葵はビクリと体を震わせ、反射的に声のした方を振り向く。するとすぐ隣に、いつの間にか人が出現していた。

「異物を〜混入されると〜困る」

 黒いローブを身に纏い、フードを目深に被っているその人物は、声から察するに男のようだ。しかし顔は見えないため、老若の判断は出来ない。その正体不明の男を目の当たりにした刹那、あることに気が付いた葵は首を傾げた。

(この人の格好って……)

 男が身に着けている黒いローブは、トリニスタン魔法学園では教師の正装だ。そしてここは、トリニスタン魔法学園なのである。ならば教師がいたとしても、何も不思議はない。

(なんだ、先生か)

 ホッとしたのも束の間、葵は自分が非難されていることを認識した。表情が見えるわけでもないし、間延びした口調から怒りを感じたわけでもないのだが、教師と思しき男からはそういう空気が醸し出されている。もしかするとこの場所は、生徒が立ち入ってはならない区域なのかもしれない。しかし、ここへ来てしまったのは不可抗力であり、葵はそのことを説明しようと試みた。だが教師らしき男は話を聞いてくれず、困る困ると繰り返すばかりだ。

「水量は〜常に〜一定〜。そうじゃないと〜困る」

 妙な間を取って喋る中で、困るという単語だけがやけにハッキリと聞こえてくる。だが明瞭なのはその部分だけで、何に『困る』のかはさっぱり分からない。初めは罪の意識を抱いていた葵も、次第にイライラしはじめた。

(なんなの、この人)

 ここまで会話が成立しない人も、珍しい。むしろ会話をしようとすることに意味はあるのだろうか。そんな自問まで湧き上がってきた頃、腕に抱いているマトが何かを訴えかけてきた。

「え? 上?」

 マトに言われるがまま顔を上げると、上部から流れ落ちてくる水の中に光るものが混じって見えた。上方からスルリと滑り込んできたそれは、水から離れて宙に舞う。そして一直線に、こちらへ向かってきた。

「何!?」

 葵が叫んだ間に、光はマトの体を直撃した。その衝撃で手を放してしまったため、マトの体は地に落ちる。葵が慌ててしゃがみこんだ時には、もうそこにマトの姿はなくなっていた。代わりに出現した人物を、葵は茫然と眺める。マトが落下した場所に突如として現れたのは、髪の長い女だった。だが一般的な『人間』ではなさそうで、ワニのものに似た尻尾が生えている。その姿を見て、葵はマトの能力である変態メタモルフォーゼなのかと考えた。しかし今までに、マトがこんな風な変態をしたところは見たことがない。

(……あれ?)

 尻尾の生えた女の顔を正面から見た時、葵は何か引っかかるものを感じた。マトと同じ金色の瞳をしているこの人物は、どこかで見たことがある。それがどこでの出来事だったのか思い出せないうちに、それまで黙していた黒いローブの男が口を開いた。

「アヴォガドロ」

 黒いローブの男が尻尾の生えている女に向かって放った一言も、聞き覚えのあるものだった。おそらくは人名であろう響きに、眉根を寄せた葵はさらに記憶を探る。だが、その二つの符合だけではまだ、自力で思い出すには至らなかった。






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