トリニスタン魔法学園ウォータールーフ分校には、インクを落としたような青い水を湛えた池が点在している。そのうちの一つである、底が見えるほど浅い池に葵が消えた後、地上に残された者達は彼女の捜索を続けていた。しかし何の手掛かりも得られぬまま時は過ぎ、初めは天頂付近にあった太陽もだいぶ傾いてきている。同行者達と同じように水面の変化を注視しながらも、オリヴァーは一人、慙愧の念に苛まれていた。
(俺が、ちゃんと助けられていれば)
葵はオリヴァーの目の前で池に落下した。葵が近付いて行ったのが浅い池だったこともあって、油断していたのだ。その油断さえなければ、いくらでも助ける術はあった。だからこそ余計に、自分の慢心が腹立たしくて仕方がない。
「こっちはどうや?」
離れた場所にいたクレアが姿を現したので、彼女に視線を移したオリヴァーは力なく首を横に振った。どこも同じ状況なようで、クレアも苦い表情で嘆息する。
葵が消えた後、オリヴァー達は時折現れる不審な水泡を調べることにした。生き物もいないのに発生する水泡は、どうやら一定の間隔で特定の場所に出現するようなのだが、それが何を意味するのか分からない。葵が消えたことと関係があるのかどうかも分からず、調べるほどに時間だけが過ぎて行った。これでは、焦るなと言われても難しい。
「気にしとるんか?」
クレアが真顔で発した一言に、胸裏を読まれたような気がしたオリヴァーはギクリとした。何を、と問い返さずとも分かる。仕方がなく、オリヴァーは弱い笑みを浮かべる。
「敵わないな」
「おたくの考えそうなことや。せやけど、気にすることあらへんで」
淡泊にそう言ってのけたクレアは、誰よりも落ち着いているように見えた。初めは冷静に取り仕切っていたアルヴァでさえ焦りの色を隠しきれなくなってきているのに、この余裕は何から生まれるのだろう。クレアが何かを確信しているように思えたので、オリヴァーは疑問をぶつけてみた。
「どうしてそんなに冷静なんだ?」
「うちらが焦ってもしゃーないやろ」
「それは、そうなんだけどな」
「急にいなくなっても、アオイはいつもちゃんと帰ってくるやないか。それに、今はマトが一緒におるんや」
たとえば葵が一人ではどうしようもないことに直面していたとしても、一人ではないのだから大丈夫。クレアが単純にそう言い切るのを聞いて、オリヴァーは笑いそうになってしまった。笑いたくなるほどに、揺るぎない信頼関係だ。
――大丈夫よ、オリヴァー
頬が緩みそうになった刹那、どこからか語りかける声が聞こえてきた。姿は見えずとも、声の主は分かる。ただ、今この時にその声が聞こえてきたのが意外で、オリヴァーは空を仰いだ。
「フィー?」
眉根を寄せたオリヴァーが独白を零した次の瞬間、目の前の池から飛沫が上がった。とっさに池を振り返ったオリヴァーとクレアは、そこで見た光景にあ然とする。まるで釣り上げられた魚のように、池から飛び出してきた葵が目の前で地面に落ちたのだ。
「い、たた……」
落下の衝撃で痛めたらしく、葵はしきりに腰の辺りをさすっている。先に我に返ったクレアが大丈夫かと声をかけたので、オリヴァーも彼女達の傍へ寄った。
「アルとウィルを呼びに行ってくるわ」
葵と共に戻って来たマトを抱き上げると、クレアはオリヴァーと葵をその場に残して去って行った。風を身に纏って飛翔するクレアを見送ってから、オリヴァーは改めて葵に目を向ける。
「ケガ、してないか?」
「うん、ぜんぜん平気」
ちょっと腰を打っただけだと苦笑した葵は、オリヴァーが差し出した手を受け取るとすんなり立ち上がった。本人の言う通り大きな問題はなさそうだったので、責任を感じていたオリヴァーはホッとして息を吐く。
「良かった。アオイに何かあったらどうしようかと思ったぜ」
オリヴァーの物言いを大袈裟に感じたようで、葵は不思議そうに首を傾げた。苦い表情を作りながら、オリヴァーは言葉を重ねる。
「池に落ちる前に助けられなかっただろ?」
「ああ……。でもそれ、オリヴァーのせいじゃないし」
自分が間抜けだったのだと苦笑した後で、葵はふと表情を改めた。それにと、彼女は言葉を続ける。
「池に落ちたおかげで、探してた物も見つかったし」
「そういえば、今までどこにいたんだ?」
オリヴァーが疑問を投げかけたところで、クレアがアルヴァとウィルを連れて戻って来た。タイミング良く全員が揃ったので、葵が池に落ちてからの出来事を語り出す。どうやら彼女は、今まで池の底にいたらしい。それを聞くと、その場にいた者達の視線が近くの池へと集中する。青い水を湛えた池は底が浅く、透明度が高いため水底まではっきりと見えた。しかしそこに、葵がさらに底へと落ちて行くような原因は見当たらない。どのように落ちて行ったのかは、本人にも分からないとのことだった。
「何らかの力が働いているんだろうね。池の水に流れがあるのなら生物のいない状態で発生する泡にも説明がつくし、水底へ落ちて行ったというミヤジマの認識は間違っていないと思う」
アルヴァが私見を述べ、それに誰も異論を唱えなかったことで、その疑問については一定の理解を得た。話を続けてとアルヴァに促され、葵が言葉を重ねる。池の底でフィオレンティーナに会ったと聞き、驚いたオリヴァーは目を見開いた。
「フィーに会った、のか」
「うん。色々、助けてもらっちゃった」
「……そうか。だからフィーが大丈夫とか言ってたのか」
先程、葵が戻って来る直前に聞いたフィオレンティーナの言葉を思い返して、納得したオリヴァーは一人で頷いた。葵との話が一段落したと見るや、アルヴァとクレアから説明を求める声が発せられる。フィオレンティーナが英霊であることを説明すると、アルヴァは眉をひそめてしまった。すでに彼女の存在を知っていたウィルも同じ表情をしていて、オリヴァーもまた、怪訝に思いながら葵に問いかける。
「アオイ、フィーと話が出来たのか?」
英霊とは過去に生きていた人間が召喚されたもので、普通は盟約を交わした者としか意思の疎通を図ることが出来ない。しかし葵が出会った時、フィオレンティーナは魂のみの存在ではなかったのだという。彼女は魔法生物の変態能力を借りたことにより実体化していて、そのおかげで直に言葉を交わすことが可能だったらしいのだ。そのような事例を知らなかったオリヴァーは目を瞠り、アルヴァやウィルも驚きを露わにしながらマトを見ている。クレアはクレアで、おそらくは別のことに驚きを感じながら、マトに語りかけていた。
「すごいやないか、マト。そんなことも出来たんやなぁ」
「なんか、フィーとマトって相性が良かったみたい」
フィオレンティーナがそう言っていたのだと明かして、葵はいったん言葉を切った。そこで表情を改めた彼女は、握りしめていた手を開きながら話を続ける。
「それで、フィー達が助けてくれたおかげで、これを手に入れることが出来たの」
葵が見せてくれた物は小さな針だった。それは、キリルが炎の精霊からもぎとった物によく似ている。葵はそれをアルヴァに差し出し、例のカプセルに収納してくれと頼んでいる。その作業を終えてから、アルヴァが改まった調子で口火を切った。
「ところで、池の底にはフィオレンティーナ=アヴォガドロの他にも誰かいたの?」
「え? うん」
オリヴァーにとってはアルヴァの問いかけ自体が意外だったのだが、それに応えた葵の言葉も予想外のものだった。何故そう思ったのかと尋ねるクレアに、アルヴァは先程の葵の発言を引用して答えている。『フィー達が助けてくれて』という葵の一言で、アルヴァは他者の存在を感じたらしい。
(こういうところは流石、だな)
もともとアルヴァが察しのいい人物だということもあるが、葵と彼の間には少ない言葉でも意思の疎通が可能な信頼関係のようなものがある。そのような人物を恋敵としなければならない友人に胸中で密かなエールを送ってから、オリヴァーも葵とアルヴァの会話に耳を澄ました。
「ヘンジンっていう、変な人に会った。その人も英霊なんだって」
「ヘン=ジン?」
「アル、知ってるの?」
「肉体を持ったまま英霊になった、偉大な研究者だよ。初代トリニスタン卿と盟約を結んだと聞いていたけど、まさかこんな所にいるなんてね」
「初代トリニスタン?」
「トリニスタン魔法学園の創始者だよ。ミヤジマが会った、現在の学園長の先祖だね」
「ああ、なるほど」
「本校に通っていた頃、ヘン=ジンは本校のどこかにいるんじゃないかって話になってね。探してみたことがあるんだ」
「へ〜。でも、予想は外れちゃったね」
アルヴァと葵は何気ない会話を続けていたが、ヘン=ジンという存在自体を知らなかったオリヴァーは、黙したまま二人の様子を眺めていた。それはウィルやクレアも同じことで、彼らはどことなく物言いたげな目で葵とアルヴァを見ている。しかしそれは、葵やアルヴァが悪いわけではない。オリヴァーはそう感じたが、痺れを切らせたウィルが冷めた瞳をして二人の会話を断ち切った。
「もうここに用はないみたいだし、僕は帰るよ」
「せやな。陽も沈みかけやし」
ウィルの意見に賛同したクレアの言う通り、夏月期の太陽は間もなく姿を消そうとしている。葵とアルヴァにも異存はないようだったので、一同はその場で散会することとなった。
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