期待と不安、着々と

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 真円の二月が、夜空に浮かんでいる。それはすでにだいぶ西へと傾いていたが、郷里とは違って二つもある月は、十分な明るさでもって夜の闇を払っていた。人気のない長い坂道を一人で上っていた葵は、丘の上に到達したところで一度足を止める。そこは丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校の裏門に当たる場所だ。一時は毎日のように通った裏門を抜けて、葵は黄色味の強い月光に照らされている校舎を見た。アステルダム分校は敷地の中央に校舎があり、葵が通ってきた裏門は敷地の北に位置している。目指す場所は大空の庭シエル・ガーデンなどがある東側で、葵は校舎と平行する形で歩を進めた。宵の口に創立祭が行われたシエル・ガーデンも素通りすると、辺鄙な場所に塔が見えてくる。二階部分にぽっかりと穴が開いているその塔が、葵の目的地だった。大穴に時計を嵌めたらピタリと合いそうなことから、葵はこの塔を『時計塔』と呼んでいる。

 時計塔は一階部分が空洞になっていて、そこには二階へと続く螺旋階段があるだけだ。携帯電話の発する光を頼りに二階へと上った葵は、そこで予期せぬ人物の姿を目にして足を止めた。壁にぽっかりと開いた穴から差し込む月光に照らされているのは、ハルだ。彼とこの場所で出会ったこと自体は、意外ではない。ここはマジスター達が楽器の練習をする場所であるようだし、そのことを抜きにしたとしても、ハルはこの場所を気に入っているようだからだ。ここで誰かに会うとしたら彼以外には考えにくいのだが、問題はそこではない。

「いつからいるの?」

 壁に背を預けて座り込んでいるハルは、パーティーの時に着ていた正装のままだった。パーティーの後に行われた儀式の時にはいたはずなので、彼がこの場所へ移動して来たのはその後、ということになるだろう。それにしても、葵は一度帰宅し、小一時間はかかる道のりを歩いて再び学園へ来たのだから、「忘れた」と答えたハルは相当な時間をここで過ごしていたことになる。いくら好きな場所とは言っても、長居のしすぎだ。

「寝てたの?」

 少し間を開けて腰を落ち着けながら、葵は隣にいるハルに問いかけた。いつも眠そうな顔をしている彼は、小さな動作で首を振る。

「そっちは?」

「私は……これ」

 手にしていた携帯電話を見せると、ハルはそれだけで納得したようだった。葵は異世界にいる友人に電話をかけに来たのだが、ハルの前でそれをするのは気が引けて、携帯電話をスカートのポケットにしまう。本来の目的を後回しにすると、やることがなくなってしまった。

「ねぇ、バイオリン弾いてくれない?」

 会話が途切れたまま座り込んでいるのもなんだったので、葵は思いついたことを口にしてみた。すんなりと立ち上がったハルは、異次元からバイオリンを取り出して構える。リクエストするまでもなく、流れてきたのはヴァリア・ヴェーテだった。

 ハルにバイオリンを弾いて欲しいと頼むのは、これで何度目になるだろう。ヴァリア・ヴェーテという曲は、生まれ育った世界で聞いたパッフェルベルのカノンに似ている。この曲に惹かれた理由は郷愁だった。この曲を、寂寞せきばくと奏でていたハルに惹かれた理由は……何だっただろう。

(元の世界に帰ったら、もう会えない)

 この世界で出会った誰の顔を思い浮かべても、寂しさが募る。それはハルも同じだが、彼に関してだけは、特別な満足感があった。初めて恋をした男の子は、彼が想いを寄せる相手と結ばれたのだ。だからもう、長い片思いは終わった。

(ステラと仲直りしたのが、あのタイミングで良かった)

 いざ元の世界に帰るという段階になってもハルがまだ悩みを抱えていたなら、きっと帰るに帰れなかっただろう。その点については安心だが、懸念は他にもある。彼らが将来、幸せに暮らしていくであろう世界を、自分が壊しかねないということだ。

(…………)

 時の精霊を召喚したことによってこの世界の者達が被る弊害について考えるのは、葵に課せられた義務である。しかし考えれば考えるほどに、迷いは深くなっていく。憂鬱な気分で、葵はスカートの上から携帯電話に手を伸ばした。

(迷ってるなんて言ったら、絶対怒るよね)

 電話をかけようとしていた異世界の友人には、絶対に帰ると約束をしている。迷っている理由がどうあれ、揺らいでしまっていること自体に、彼女は怒りそうだ。途方に暮れる思いで空を仰いだ葵は、次に自分と同じ立場に置かれた女性のことを思い浮かべた。

(ヨーコさんと話したい)

 マツモトヨウコという女性は葵と同じく異世界から召喚され、この世界の住人と恋仲になりながらも、生まれ育った世界に帰ることを選んだ人物だ。彼女が異世界に帰った時とは少し状況が違うが、この苦悩を理解してくれるのはヨウコしかいないだろう。そして間接的になら、彼女の話を聞く方法もあった。だがヨウコと話をするためには、まず異世界の友人である弥也ややと話さなければならない。どのみち怒られるしかないかと、嘆息した葵は目を閉じて壁に頭を預けた。

(……ん?)

 ふと、口唇を何かが掠めるような感触があって、違和感を覚えた葵は目を開けた。すると何故か、立ってバイオリンを弾いていたはずのハルの顔が目の前にある。何事かと考え出す前に口唇を重ねられて、驚きのあまり葵の頭は真っ白になった。思考が空白になっている時間がどれくらいだったのかは、分からない。口唇を離したハルが至近距離から見つめてくるので、そこでようやく、葵は我に返った。

「な……何!?」

 ハルに、キスをされた。思考が飛んでいたので口唇に残っている感触の判断でしかないが、とても親愛を示すものだとは思えないようなキスを。そうした事実は理解したが、何故そういうことになったのかがさっぱり分からない。混乱する葵をよそに、当のハルは無表情のまま言葉を紡ぐ。

「嫌?」

「イヤ、って……? ええ??」

「嫌なら、やめる。待ってとかは、聞かない」

 何だそれはと、葵は叫びたかった。しかしハルが再び口唇を重ねてきたので、言葉を紡ぐことは叶わない。口唇が触れ合う僅かな音と混じり合う吐息が、何度も耳についた。

「ハル!! ちょっと、待っ……」

 口唇が離れた隙に叫んでも、再びキスで黙らされる。待ってと言いたかったのだが、宣言通り、彼は聞かなかったことにするらしい。口づけはどんどん熱を帯びてきていて、葵の体からは次第に力が抜けていった。酸欠なのか惹きこまれているのか、意識が蕩けていく。だが、ワイシャツのボタンに指をかけられたことで、葵はハッとした。

「い、嫌!!」

 拒絶する言葉を叫んだのも、ハルの胸を力任せに押し返したのも、ほとんど反射的なものだった。ハルからすれば突然の抵抗にあった形なのだろうが、彼は相変わらず無表情のままだ。

「分かった」

 短く言葉を紡ぐと、ハルは何事もなかったかのように去って行く。その姿が壁に開いている穴の向こうに消えて行くのを、へたりこんだままの葵は呆然と見送るしかなかった。






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