大きくとられた窓から差し込む日差しが薄いカーテン越しに広い室内を照らす朝。一人で使うには広すぎるベッドの上で、少女は仰向けに転がっていた。早起きの鳥が鳴く声が微かに聞こえるだけの静けさの中、やがて彼女は勢い良く瞼を上げる。その様子は今覚醒したというものではなく、ベッドの上で上体を起こした少女は爽やかな朝に似つかわしくないため息を吐き出した。
(全然、寝られなかった)
寝不足で目を血走らせている少女の名は、宮島葵という。仕方なくベッドを抜け出した葵は窓辺に寄り、薄手のカーテンを退ける。窓を開けると夏の朝に特有の空気が肺を満たしていった。見上げた空は、抜けるような青。夏の時期は天候が変わることのない、この世界らしい朝だった。
窓を開け放ったまま踵を返した葵は、寝間着のままで寝室を後にした。その後は廊下を進み、自室とは対極に位置する場所を目指す。訪れたのは同居人である、クレア=ブルームフィールドという少女の部屋だ。
「クレア、起きてる?」
扉をノックして声をかけてみたが、室内からの反応はなかった。この屋敷の部屋はどこも広いので、扉の外側からでは声が届かないこともままある。もう一度ノックをするよりも、葵は少しずつ扉を開けて様子を窺うことにした。
「わっ、」
室内に入ろうとした葵は足元に何かがあることに気付き、小さく声を発した。しかし驚いたのは一瞬のことで、それが何なのかを認識すると頬を緩める。そこにいたのはクレアのパートナーである、魔法生物のマトだった。
「おはよう、マト」
声をかけながら、葵はワニに似たマトの体を抱き上げた。それから改めて、薄暗い室内を見渡す。天蓋つきのベッドに人影が見えたので、葵はそちらに寄った。
「クレア?」
天蓋の中を覗きこむと、まだベッドの中にいたクレアはもぞもぞと起き出してきた。しかし完全には起き上がらず、ヘッドボードに背を預けた彼女は億劫そうに乱れた髪を掻きあげる。
「なんや、今朝は早起きやな」
「……だるそう、だね。やっぱりまだ、あんまり調子良くない?」
「せやなぁ……本調子とはいかんみたいや」
「寝てた方が良さそうだね。何か欲しいものとかある?」
葵が何気なく発した言葉に、クレアは苦笑を返してきた。不可解な反応に葵は首を傾げる。
「何?」
「そないな訊かれ方すると、妙な感じするわ」
魔法という便利なものが存在する世界では、大抵のことは呪文一つでなんとかなってしまう。そのため不調の時であろうと、他人にしてもらうことはあまりないのだそうだ。そうした説明に葵が納得しているうちに、クレアはベッドを抜け出した。
「とりあえず朝食にしようや。アオイも着替えてきぃ」
「うん、分かった」
抱いていたマトをクレアに渡すと、葵は着替えのために自室へ引き返した。習慣で高等学校の制服に手を伸ばしたのだが、ワイシャツのボタンをかけていたところで指を止める。毎日の何気ない動作のはずが、急に昨晩の出来事がフラッシュバックして、葵はその場にしゃがみこんだ。
「〜〜〜〜〜っ、」
こんなことを思い出す場面では、ない。まして激しい動悸に襲われる場面でも、決してない。早く思考を正常に戻したくて、ワイシャツを脱ぎ捨てた葵はクローゼットを漁った。普段は滅多に使用しないのだが、この部屋のクローゼットには部屋着からパーティードレスまで、一通りのものが揃っている。目についた服を適当に着込んで、葵はそそくさと自室を後にした。
「なんや、えらいカワイイ格好しとるやないか」
若干呼吸を乱しながら食堂に辿り着くと、クレアからそんな言葉をかけられた。いつもは高等学校の制服か、トリニスタン魔法学園の制服を着ていることが多いので、それ以外の服装が珍しかったのだろう。葵はそう解釈したのだが、クレアは後に想定外の言葉を続ける。
「デートのために気合い入れたんか?」
冷やかし混じりのクレアの一言で、葵は思い出した。そういえば今日は、キリル=エクランドという少年と出掛ける約束をしていたのだと。
「なんや、忘れとったんか?」
反応を返せずにいる葵を見て、クレアが微かに眉をひそめる。慌てて首を振って、葵は食卓に着いた。
(忘れてたわけじゃない、けど)
昨夜の出来事があまりにも衝撃的すぎて、キリルとの約束が頭から抜け落ちてしまっていた。それは結局忘れていたのと同じかと、葵はクレアに知られないように嘆息する。今日の約束は自分からキリルを誘った、本当の意味での初デートと言えるものだ。だからこそ尚のこと、昨晩の出来事が後ろめたく感じられた。
(でも、昨日のことはハルが勝手に……)
これまで、そんな素振りは微塵もなかった。それなのに突然、ハル=ヒューイットという少年がキスをしてきたのだ。強引に奪われただけであって、その行為に自分の意思は存在していない。と、言いたいのだが……。
(嫌とは、言ったけど)
最終的にはハルを押しのけ、拒絶した。だがあれは半ば反射的なもので、本当に嫌だったのかどうかは疑わしい。なんといってもハルは、初恋の相手なのだ。いくら気持ちの整理をしたといっても、あんなことをされては動揺せずにはいられない。
「アオイ?」
訝しげなクレアの声で、考えに沈んでいた葵は我に返った。曖昧な笑みを浮かべて追及を避けると、葵は朝食に手を伸ばす。だが食物はあまり入らず、結局は紅茶ばかりを口にした。
「体調悪いんか?」
食の進まない葵を見て、クレアが問いかけてきた。そう言う彼女も、あまり食物は欲していないようだ。別段体の調子が悪いわけではない葵は、自分のことよりもクレアの方が気になった。
「私は平気。クレアの方こそ、大丈夫?」
「昨日よりはだいぶマシやから、そないに心配せんでもええわ。それより、今日はどこに行くんや?」
「特に決めてないけど」
「ノープランかいな。そんなんで大丈夫なんか?」
「大丈夫……じゃないかな?」
「何をするかくらい、決めといた方がええんやないか」
「うーん……この世界のデートって何するの?」
「アオイがおった世界ではどんなことしとったん?」
「私はしたことないけど、友達は映画行ったりとか遊園地行ったりしてたなぁ」
「エイガっちゅーのは、確か観劇のことやったな。二人で芝居見に行ったらデートっぽいんやないか?」
「ああ……うん、そうだね」
キリルがどういった芝居を好むのかは見当もつかないが、デートとしては無難な気がする。一度クレアと共に観に行ったことがあるので、パンテノンの街に行きさえすれば場所も分かるだろう。そうした理由から、葵はクレアの提案を頭に入れておくことにした。キリルがプランを練ってきてくれたなら、それはそれでいい。
「で、何で急にキリルとデートしようって思ったんや?」
話が一段落したところでクレアが話題を変えたので、紅茶に手を伸ばしていた葵は動きを止めた。
キリルと二人で出掛けてみようと思ったのは、余人のいない所で彼と正面から向き合ってみようと考えたからだった。キリルとの付き合いは一年を超えるというのに、葵は未だに彼のことをよく知らない。知ったからといって恋愛対象になるとは限らないが、少なくとも、知らずに拒むよりは自分もキリルも納得が出来るだろう。だから二人だけの時間が必要だと、キリルを誘った時は考えていたのだが……。
(でも、相手のことをよく知らないなんてハルも同じだよね)
キリルと同様にハルも、プライベートなことなどろくに知らない。それでも確かに、ハルのことは好きだと思ったのだ。その違いが何なのかを説明することは難しいが、確実に言えることが一つある。キリルはやはり、初めのうちの心象が悪すぎた。
(……って、ハルは関係ないって!)
いつの間にかまたハルのことを考えている自分に気付き、葵は大きく頭を振った。怪訝そうにしているクレアには苦笑いだけを返し、深く嘆息する。こんなことで今日の予定をこなせるのかと考えてみたが、昨日のキリルの様子を見る限り、とても延期など出来そうになかった。
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