雲一つない夏の夜空に、黄色味の強い光を放つ月が浮かんでいる。一つでも充分すぎるほどだが、二つも存在する満月は圧倒的な明るさでもって夜の闇を払っていた。しかし、いくら昼間のように明るいとはいえ、現在は夜。生徒が活動する時間帯ではないため、トリニスタン魔法学園アステルダム分校は静まり返っていた。
かりそめの自宅を出てから小一時間ほどかけて夜道を歩いてきた葵は、月明かりに照らされている塔を前にして歩みを止めた。二階部分にぽっかりと穴が開いているこの塔は、葵が密かに『時計塔』と呼んでいる場所だ。気持ちを落ち着けるために短く息を吐いてから、葵は塔の内部へと歩を進めて行く。窓がないので一階部分は暗いが、二階は壁に開いた穴から差し込む月光が明るい。そこに人影を認めて、葵は息を止めた。壁を背にして座り込んでいるのは、栗色の短髪にブラウンの瞳の少年。この学園のエリート集団、マジスターの一員であるハルだ。この場所で、彼に会えるかもしれないと思った。そしてそれが現実になったということは、向こうも話があるということだろう。そう解釈した葵は無表情に努めて、ハルの傍へ寄った。
座り込んでいるハルから少し距離を開けて、葵は歩みを止めた。ハルはその行動を目で追ってはいたが、葵が動きを止めてからも口を開こうとしない。見上げてくるブラウンの瞳からは何の感情も読み取れなくて、葵は口火を切ることを躊躇していた。しかし沈黙を長引かせることも苦痛で、やがては自分から口を開く。
「話があるの」
「うん。俺も」
「……先、言って」
「キルと付き合うことにしたの?」
そんな質問は予想もしていなくて、意表を突かれた葵はポカンと口を開けた。言葉を紡ぎ終わったハルは閉口したが、目線は外していない。困惑した葵は眉根を寄せながら、再び口を開いた。
「何、言ってるの?」
「答えになってない」
淡々とした口調で責められて、葵は思わず口を噤んだ。問いの答えは否だが、自分からキリルに歩み寄ろうとしていたことは確かだ。それは前向きな変化だったはずなのだが、ハルの行動でぶち壊しにされた。それなのに何故、よりにもよって彼から責められなければならないのだろう。今目の前にいる人物は、一晩中苛まれた自己嫌悪の源なのだ。
「何で、ハルにそんなこと言われなくちゃいけないの」
怒りを滲ませた葵は拳を握りしめ、震える口唇で憤りを吐き出した。対するハルは平素の調子のまま、知りたいからなのだと言う。目を伏せていた葵は改めてハルを睨み付け、声を荒げた。
「分かんないよ!!」
ハルが何故、キリルとのことを気にするのか。そして何故、そのことでハルから責められなければならないのか。それ以前に彼はどうして、いきなりキスなどしてきたのか。いくら考えも全てが解らない。波立つ感情をどこに落ち着けたらいいのかも解らなくて、頭も心も整理がつかない。ただ自己嫌悪だけはハッキリと認識していて、それ以上の言葉を紡げなくなった葵は口唇を噛んだ。
(悔しい、)
一度は片を付けたはずなのに、今更ハルに振り回されている自分が情けなくて仕方がない。そのせいでキリルへの接し方が変わってしまったことが、申し訳なくて仕方がない。胸中で幾度もハルを責めてきたが、本当に罵られるべきは自分だ。いつまで経っても揺らいでいるから、こういうことになってしまうのだ。
「泣いてるの?」
「泣いてない!」
投げかけられた一言を即座に否定して、目元を拭った葵はハルを睨み付けた。一番悪いのは自分だが、眼前のこの人物も確実に凶悪なことをしている。殴ってやりたいと思いながら、葵は必死で言葉を重ねた。
「何でキスなんかしたの? ステラとうまくいったのに、どうしてあんなことするのよ!」
「ステラ?」
何故そこでステラの名前が出てくるのかと、眉根を寄せたハルが問い返してきた。そんな反応は予想外で、驚いた葵は瞬きを繰り返す。
「だって……話し合い、したんでしょ?」
「したけど、それで終わった」
「え……」
絶句した葵は何がどうなっているのか分からなくなってしまい、ポカンと口を開けたまま動きを止めた。
ハルとステラは両想いであり、一時は恋人同士だった。だが恋人の関係は長く続かず、ハルはステラをトリニスタン魔法学園の本校に残して、自分はアステルダム分校に帰って来たのだ。別れる際、彼らはちゃんとした話し合いをしていなかった。だから偶然ステラと再会を果たした夜に、葵がハルを諭したのだ。そして彼らは話し合いをして、再び恋人同士に戻った。その、はずだったのだが……。
「何で、そう思ったの?」
ハルが問いかけてきたので、どうにか頭を整理しようとしていた葵は彼の方に目を向けた。
「だって、ハルも落ち込んでなかったし、ステラもスッキリした感じだったから……」
ハルの疑問に答えているうちに、葵は段々と自分の言動が恥ずかしくなってきた。よく考えてみれば全ては状況による判断で、本人達からは何も聞いていない。それで勝手に勘違いをしていたのだから、間抜けと言う他ないだろう。
(でも、それとこれとは別だよね?)
ステラと寄りが戻ったのは勘違いだったとしても、それがハルからキスをしてきたことの理由にはならない。一体何を考えているのかと様子を窺ってみれば、彼は動揺など微塵も感じさせない無表情でこちらを見ていた。すっかり憤りが失速してしまった葵は気まずさを覚え、すぐに目を逸らす。これからどうしようと考えていると、ハルの方から話を続けてきた。
「ステラと付き合ってると思ったから、あんなに怒ったの?」
「それは……、えっと、それも、あるけど……」
「けど?」
ハルがあくまでも回答を求めてくるので、葵も覚悟を決めた。気持ちを落ち着けるために短く嘆息してから、葵はハルの目を見て言葉を紡ぐ。
「ハルが意味不明だからだよ。ステラと寄りを戻したんじゃなくたって、私にキスする意味が分からない」
「好きだから」
ハルは何気なく答えを寄越してきたが、それを聞いた葵は絶句した。
「は……あ!?」
自分の口から妙な声が発せられたと認識したのは、ハルが素っ頓狂なことを言い出してからどれくらい経ってのことだったのか。激しい眩暈を覚えた葵は立っていられず、膝を折って頭を抱えた。
「どういうこと?」
「言ったまま」
「そうなのかもしれないけど、そうじゃなくて、」
全身から異様に力が抜けていくのを感じながら、葵はなんとか頭を持ち上げた。目線を同じくしたハルは、眉一つ動かすことなくこちらを見ている。その表情からは相も変わらず何も読み取れなくて、葵は仕方なく言葉を探した。
「やっぱり意味が分からない。なんで急にそんなことになるの?」
「あんたが好きだって言うから」
その熱意に負けたとハルは言ってのけたが、身に覚えのなかった葵は大いに焦った。
「ちょっと待って。私、ハルには言ってないよ」
確かにハルは、葵にとって初恋の相手だ。それはすでに周知の事実となってしまっていて、ハルも気づかない方がおかしいくらいの状況ではあった。だが、本人に直接好きだと言ったことなどない。それなのにハルは、どちらでも同じだと言う。
「言われなくても分かる。目とか、態度とか」
「っ……、」
改めて指摘されると思い当たることが多すぎて、羞恥に顔を赤くした葵は口元を手で覆った。
(なんで、今更)
今まで気付かぬ振りをしてきたのなら、これからもそうしていてくれれば良かった。ハルが今まで通りならステラとうまくいったと勘違いをしたまま、終わらせることが出来たのに。それを、こうも色々と暴かれてしまっては、もう元の関係に戻ることも難しい。
(元の、関係?)
ふと、自分の思考に引っ掛かりを覚えた葵は眉根を寄せた。ハルは今まで、葵の気持ちに気付きながらも口を閉ざしてきた。それは気持ちに応えることが出来ないという意思表示だろうに、何故今になってそれを壊そうとするのか。
それまで壁に背を預けて話をしていたハルが立ち上がったので、ギクリとした葵は顔を上げた。こちらへ歩み寄って来るのを確認すると、葵も反射的に立ち上がる。身を引いた葵を見て、ハルは怪訝そうに眉根を寄せた。
「何?」
そう問いかけられたが、何事かと尋ねたいのはこちらの方だ。このタイミングでどうして、距離を縮めようとしてくるのか。
(お、落ち着こう)
平素の言動が理解不能なハルのことだから、大した意味はないのかもしれない。だが、そうした考えとは裏腹に、鼓動が速まっていく。この先に何が待ち受けているのか、解ってしまったような気がして眩暈がした。
Copyright(c) 2016 sadaka all rights reserved.