壁面に開いた穴から差し込む月明かりに照らされて、葵とハルは言葉もなく対峙していた。ハルが一歩を踏み出せば葵が一歩後退するので、二人の間の距離は縮まらない。二・三度そんなことを繰り返すと、ハルは呆れたような顔になって歩みを止めた。
「何してるの?」
「だって、寄って来るから」
ひどい言い方をしてしまったかもしれないと思ったが、葵としても、もう後には引けなかった。特に傷ついたような様子もないハルは、短く息を吐くと空中で指を這わせる。何の意味があるのか分からない動作に首を傾げているうちに、葵は壁から伸びてきた土の塊に腰元を拘束されてしまった。
「なっ……」
焦って振り返ってみても、すぐそこに塔の壁がある。壁に引き寄せられるように拘束されたので、背中をべったりと壁に預けている感じだ。どこから出現したのか分からない土の塊を見て、思い出す。ここは魔法の存在する異世界で、悠然と歩み寄って来る人物は土の魔法を得意としていたのだ、と。
苦しくはないが逃げ出すことも出来なくて、葵は眼前で歩みを止めたハルを大人しく迎えることしか出来なかった。力なく垂れている葵の手首を掴むと、ハルは葵の腰元を拘束していた土の塊を消失させる。
「つかまえた」
「……ずるいよ」
こうも簡単に魔法を使われてしまっては、魔法の使えない葵に逃げる術はない。さらに左手首を拘束されているので、両手で顔を覆ってしまうことも出来なかった。上気した顔を隠しようがなくて、葵は仕方なく頭を垂れる。
「ステラと別れた時」
「……え?」
ハルが不意に話を始めたので、葵は状況を忘れて顔を上げた。距離の近さに怯んだが、ハルの表情には強引に物事を進めようとする様子は感じられない。そのため葵も落ち着いて、言葉の続きを待った。
「ステラのこと、好きだった。でも、俺から手を離したんだ」
「……うん、」
「バカだったって、思う。だから同じことはしたくない」
軽く握られていた左手首に力が込められて、掌の熱が肌に伝わってきた。好きだと言われた時よりもずっと、その熱がハルの感情を伝えてくる。彼が自発的に胸の内を語ってくれたのも、初めてだった。
(どうしよう、嬉しい……)
絶対に振り向いてくれないと思っていた相手が、好きなのだと言ってくれている。そして直接的な言葉にこそしていないが、ハルは付き合おうと言っているのだ。好かれている実感を伴って理解すれば、今までに感じたことのない喜びが胸を満たしていく。そうして、思い知った。やはりハルは、自分の中で唯一絶対の特別な存在だったのだと。
「キス、するから。イヤなら拒否して」
「っ、」
それはおそらく、返事の代わり。付き合う気がないのなら拒めということなのだろうが、葵には抵抗することが出来なかった。口唇が触れ合うだけのキスだったのに、その口づけは痺れるほどに甘い。やっぱりずるいと、顔を背けた葵は胸中で文句を言った。
「キルには俺から話す」
それまで夢の中にいるような心地でいた葵は、ハルが発した一言で現実に引き戻された。
(そうだ、)
ハルと付き合うということは当然のことながら、キリルの想いを拒絶することになる。ハルからの告白が現実感ゼロだったとはいえ、キリルのことを失念していたのは酷すぎだ。再び罪悪感が押し寄せてきて、胸が潰れそうになった葵は顔を歪めた。
「ハル、私……」
「もうイヤって言っても聞かない」
包み込むように抱きしめられて、葵は後に続けるはずだった言葉を失った。間近で感じるハルの体温は、とても心地がいい。こんな風に抱きしめてもらえることなど、想像もしていなかった。これからハルと付き合っていけば、こうして幸福を感じられる機会も多いのだろう。そう考えると余計に、キリルへの罪悪感が募った。
(キリル……)
脳裏に浮かべた顔は、ひどく傷ついた表情をしていた。彼のそうした表情は今までに幾度か見てきたが、それは自分が関わった時だけのような気がする。出会った当初の暴君からは想像も出来ないような表情をさせるまでに、いつの間にかキリルとの距離が近くなっていたのだ。
キリルは力加減などと器用なことは出来ず、いつでも全力で一生懸命。だから空回りしてしまうことも多いが、彼はいつだって葵のことを考えてくれていた。その愚直なまでの一途さに、応えてあげたいと思うようになっていたのだろう。だからハルのことを考えると、ひどく後ろめたかったのだ。
「私ね、最近はキリルのこと、ちょっと好きになってたんだと思う」
抱きしめられたまま話を切り出したので、ハルがどんな表情をしているのかは分からない。だが話を聞いていそうな雰囲気はあったので、葵はそのまま言葉を重ねた。
「私からデートに誘ったりしたし、キリルにもそういうの、伝わってると思うんだ」
期待を、持たせた。それなのにデート中はハルのことばかりを考えていて、あまつさえ付き合うことにしたなどと、言えるわけがない。言外のそうした思いを汲んでくれたのかは分からないが、ハルはゆっくりと体を離した。
「隠したいってこと?」
「ううん。隠したって、どうせすぐバレるよ」
普段から何を考えているのか分からないハルはともかく、葵は嘘がつけるほど器用ではない。周りにいる者達も勘がいいので、隠し事はすぐに暴かれるだろう。なによりこれ以上、キリルの『誠意』を傷つけたくなかった。だから……と、葵は顔をしかめながら言葉を続ける。
「ハルとは付き合えない」
「それで、キルと付き合うの?」
「そんなこと、出来るわけないじゃん」
自分の気持ちを自覚したうえでキリルと付き合うことも、キリルの気持ちを無視してハルと付き合うことも、どちらも出来そうにない。この場合一番いいのは、どちらとも付き合わずに自分が彼らの前から消えることだ。逃げているだけだと言われるかもしれないが、その方がいいと、葵は結論づけた。
「キリルにもちゃんと断るよ。だから、なかったことにしよう?」
気持ちを確かめあってキスまで交わしてしまったが、明日からはまたただの友人。そうした葵の提案を、ハルは無言で聞いていた。そのまま口を開くことなく、ハルは踵を返す。その姿が壁面に開いた穴の向こうに消えてしまうまで見送ってから、葵は崩れ落ちた。
(怒ってた、かな)
終始無表情のままだったので、ハルが何を思ったのかは分からない。だが都合がいいと罵られても、これが最善だと思うのだ。あとは自分だけの問題で、今夜の出来事は夢にしてしまえばいい。
(なんていう夢……)
これが本当に夢ならば悪夢と吉夢、どちらだったのだろう。どちらにせよ現実感は薄いと、壁に背を預けた葵は目を閉じて空を仰いだ。
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