王立の名門校であるトリニスタン魔法学園のアステルダム分校に校医として勤務しているアルヴァは、その日も平素のように朝から保健室に籠っていた。校医とは言っても、この学園の生徒は多少の怪我や病気なら自身で治癒出来てしまうため、仕事は少ない。時たま訪れる物好きな生徒を適当にあしらって、本職とは関係のない雑事や自身の研究に時間を費やすのが、このところの生活スタイルとなっていた。窓際のデスクに張り付いていることの多いアルヴァは、この日もその場所で書類の整理をしていた。だが平素にはない異変を感じて、かけていた眼鏡を引き抜いたアルヴァは窓の外に視線を転じる。
(……何だ?)
一瞬、焼け付くような魔力を感じた。爆発的に増幅したそれはすぐに消失したが、学園の敷地内で何かがあったのは間違いない。感知した魔力から炎が連想されたので、おそらくはキリル絡みだろう。校内で異変があれば報せるようにと言い含められているアルヴァは、確認に行くべきかを思案した。しかしすぐ、行動を起こすことを放棄してデスクに向き直る。マジスター絡みのことならば放っておいても、そのうち情報が入ってくるだろうと思ったからだ。そしてその予感は、しばらくの後に的中した。
「アル、傷薬ない?」
慌てた様子で保健室に駆け込んで来たのは葵だった。彼女の顔を見て、アルヴァは質問に答えるよりも先に眉をひそめる。
「その顔はどうしたんだ?」
「顔?」
いつもと違うという自覚がなかったようで、葵は不思議そうにアルヴァの言葉を繰り返した。鏡を召喚することも出来たがショックを与えては可哀想だと思い、アルヴァは見たままを言葉にすることにした。
「髪が乱れてる。瞼も腫れぼったいし、煤けているな」
「あ、ああ……そういうこと」
思い当たることがあったのか、葵は苦々しく言葉を濁した。後で顔を洗うからと誤魔化されたが、アルヴァは葵の顔を凝視する。煤けている理由はよく分からないが、彼女の顔は泣いた後のように見えた。傷薬と言っていたから怪我をして、痛みに涙したのだろうか。
「そこに座って、傷を見せて」
治療を始めようとしたアルヴァは葵に簡易ベッドを勧めたのだが、彼女は自分ではないと言う。一度廊下に出て行った葵はしばらくの後、ハルを連れて戻って来た。見知った顔だが、そのあまりの変わりように、アルヴァは驚いた。
「これは、何事?」
明らかに治療が必要な相手に対して思わず尋ねてしまうほど、ハルの姿は異様だった。吐血したのか、胸元が微かに血で汚れている。
「ちょっと、色々あって」
「とりあえず、そこに座って」
さきほど葵に勧めた簡易ベッドを指示して、アルヴァは治療の準備に取り掛かった。診察してみるとハルの傷はほとんどが裂傷で、吐血も口の中を切ったことが原因だったらしい。上半身に異常な熱を感知したので服を脱がせてみると、彼の肩口には拳の痕がくっきりと残っていた。
「キリル=エクランドか」
このような独特の傷は、彼の仕業としか思えない。アルヴァは呆れ混じりに言ったのだが、葵とハルは苦笑さえも浮かべはしなかった。黙り込んでいる二人を妙だとは思いつつ、アルヴァは話を続ける。
「さっき、
何があったのだと尋ねると、葵が重い口調でシエル・ガーデンが全壊したとだけ答えた。学園内の物には復元魔法がかけられているため、全壊したとしても修復は可能だ。マジスターの誰かが地道に直していけば、一日とかからず元通りになるだろう。マジスターの内輪揉めなど、理事長に報告を上げるまでもない。それにしても派手にやったものだと、アルヴァは胸中で呟きを零した。
「それで、原因は?」
ハルの手当てが終わったため、アルヴァは片付けをしながら話を続けた。以前のキリルはちょっとしたことで暴走することが多かったが、近頃の彼にしては珍しい暴挙だ。それも、旧知の間柄であるはずのハルを相手に暴力を振るったとあっては、余程の事情があるに違いない。そう考えての問いかけだったのだが、葵は何故か、言葉を紡げない様子で閉口した。
葵の様子が明らかにおかしかったので、片付けの手を止めたアルヴァは眉根を寄せた。アルヴァから視線を外すと、葵は顔色を窺うようにハルを見る。ハルは口を開かなかったが、彼のブラウンの瞳は何かを言いたげに葵を見ていた。目線だけで会話を成立させているような様子に、アルヴァは眉間のシワを深くする。そのうちに葵が、覚悟を決めた面持ちになって嘆息した。
「ハルと付き合うことになったの」
そのせいでキリルを怒らせてしまったのだと葵は語っていたが、後に続いた彼女の言葉はアルヴァの耳を素通りしていった。何も反応を返せずにいると、やがて葵が怪訝そうに眉をひそめる。
「アル?」
「……驚いた」
とっさに口を突いて出た言葉は、決して嘘ではなかった。実際に、驚いた顔もしていたのだろう。不審を抱かれた様子はなく、苦い表情を作った葵は発言を続けている。しかしその内容は、少しも頭に入ってこなかった。
「じゃあ、行くね。アル、ありがと」
何かの話を終えると、そう告げた葵はハルと共に保健室を後にした。取り残されたアルヴァはしばらく立ち尽くしていたが、そのうち我に返って、窓際のデスクに戻る。仕事用の固い椅子に腰を落ち着けると、体の重みでそのまま沈んでいきそうになった。
(付き合うことになった、か)
それは奇しくも、数日前にユアンやレイチェルから忠告を受けたばかりの内容だった。葵には恋愛をしている余裕などないとアルヴァは思っていたのだが、現実は想像の遥か先を進行していたらしい。
(ミヤジマの気持ちなんて、初めから解っていたはずじゃないか)
この学園に編入してマジスターと出会ってから、葵はずっとハルのことが好きだった。だが彼らの仲はいつもうまくいかず、葵もハルと恋人同士になることは諦めていた。だから彼に関しては安心、していたのだ。葵が彼を好きでいるうちは誰ともうまくいくことはないと、そう思っていた。そう、願ってすらいたのかもしれない。
(浅ましい)
葵の幸せを願う振りをして、本当は彼女に幸せになどなってもらいたくなかったのだ。そうして、自分にとって心地の良い関係を続けたがっていた。対するハルは、それまで培ってきたものを壊してまで葵を欲した。自身が傷つくことも厭わない、勇気ある決断だったと言う他ないだろう。葵が彼を選ぶのは当然のことで、そこにアルヴァが介入する余地はない。
誰にどう思われようと、自分もハルのように戦ってみるべきだったのかもしれない。今更な考えが脳裏をよぎったが、遅すぎる。葵にはもう、自分など必要ないのだ。これまでのように真っ先に頼られることもないし、落ち込んだ彼女を慰めるのも自分の役目ではなくなってしまった。初めて本気で愛した少女が遠く、離れていく。
両手を突いていたデスクに何かの雫が落ちて、アルヴァはハッとした。その正体が分からぬままデスクの滲みが薄れていくのを見つめていると、新たな雫が黒い滲みをつくる。いつの間にか前傾になっていたアルヴァは姿勢を正し、自身の頬に手を触れてみた。すると今度は、その手に雫が落ちる。そこでようやく自分が泣いていることに気付き、アルヴァは愕然とした。
(涙……)
泣きたいと、思っていたわけではない。それなのに勝手に溢れてきた涙は、体からの危険信号だったのかもしれない。それほどまでに、自分はショックを受けているのだ。そう自覚すると、胸が痛くなるのを止められなかった。
(失って、しまったんだ)
どれだけ後悔したところで、失ったものはもう戻ってこない。喉の奥からせり上がってくる衝動に耐えられず、その場に崩れ落ちたアルヴァは声を押し殺して泣いた。
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