言えない言葉

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 夏月かげつ期最初の月である、岩黄いわぎの月の十七日。その日の朝、同居人であるクレア=ブルームフィールドと屋敷で別れた宮島葵は、一人でトリニスタン魔法学園アステルダム分校に登校した。この世界には時計がないため、徒歩で学園まで赴いた葵が登校にどの程度の時間をかけたのか、正確には知れない。だが、どんなにゆっくり歩いたとしても、一般の生徒が登校してくる前には学園に辿り着くように屋敷を後にしたはずだった。それなのに葵の目論見は、ものの見事に外れた。

 丘の上に建つアステルダム分校は広大な敷地のほぼ中央部に校舎があって、外から見た限りでは、学園は早朝の静けさを保っていた。しかし校舎の中に入ると、そこには学園の制服である白いローブを纏った生徒が溢れかえっていたのだ。ギョッとして足を止めた葵を、生徒達は注視している。そして幾人かは、ひそひそと小声で囁き合いを始めた。その内容までは聞き取れなかったが、この居心地の悪さは久しぶりの感覚だった。

(……嫌だなぁ)

 自分が周囲の注目を集めるのは、悪い理由でしかない。だが悪意に呑まれて退散するのも癪で、葵は当初の目的を果たすことにした。校舎の北辺に向かって歩を進めて行くと、生徒達がただ集まっているのではないことに気がつく。彼らは整然と列を成していて、それは葵の進む方向に伸びているようだった。

(もしかして、)

 長蛇の列の先に何が待ち受けているのか、歩いているうちに葵は理解した。その予想は程なく的中して、目指す場所に生徒達の最前列が見えてくる。そこはこの学園の中で、保健室と呼ばれる場所だった。

 トリニスタン魔法学園アステルダム分校の校医は、アルヴァ=アロースミスという名の青年である。しかし彼は不在で、現在はアルヴァの姉であるレイチェル=アロースミスが代理で校医を務めている。何かのきっかけで、生徒達はそのことを知ったのだろう。そして類稀な魔法使いであるレイチェルに取り入ろうと、こうして列を成しているのだ。

(やっぱり……)

 そう感じて呆れるのと同時に、葵は生徒達の揺るぎない熱意に感銘すら受けそうになった。トリニスタン魔法学園は王立の名門校だが、どうも分校の生徒というのは、一部を除いてあまり地位が高くないらしい。だから彼らは、有力者とのコネクションを得ようとする。自分の将来を少しでも良いものにしようと、誰もが必死なのだ。

(ここまでくると、なんかもう、すごい)

 葵にはあまり良いことには思えないのだが、善悪はともかく、生徒達は目的意識を持って懸命に生きている。それは今の自分よりも遥かに立派な生き方なのではないかと、葵は思いがけず悩むことになった。そうこうしているうちに、校内に鐘の音が鳴り響く。これは間もなく授業が始まることを告げるもので、本来であれば、鐘の音を聞いた生徒達は各々の教室へ向かわなければならない。しかし今は、誰一人としてこの場を離れる気配がなかった。生徒達にとっては分校の授業よりも、目の前にある稀少なチャンスの方が重要だということだろう。予鈴が鳴ってからしばらくすると、保健室の扉が内側から開かれた。まずは白いローブを纏った女子生徒が室内から出て来て、続いて白衣を着用したレイチェルがその姿を現す。廊下に立ち尽くす葵を一瞥した後、レイチェルは居並ぶ分校の生徒達に涼しい眼差しを注いだ。

「予鈴が鳴ったので教室に行ってください」

 長蛇の列を成してまでレイチェルと話をする機会を待っていた生徒達は、彼女の一言に不満そうな空気を醸し出した。言葉にして直接抗議をする者はいなかったが、そうした胸裏は雰囲気で分かる。しかしレイチェルは臆することなく、凛としたまま言葉を続けた。

「学生の本分は勉学です。授業を疎かにする者に望んだ未来は訪れないでしょう」

 説教の口調になるわけでもなく、表情に叱責を浮かべるわけでもなく、レイチェルはただ淡々と言葉を紡いだだけだった。しかし効果は絶大で、最前列の生徒からぱらぱらと、その場を立ち去って行く。それは自然と後列の生徒にまで波及して、本鈴が鳴る頃には、保健室前の廊下から生徒の姿は消えていた。

「どうぞ」

 ただ一人廊下に残った葵は、レイチェルに促されて保健室の中へと進入する。応接セットに向かい合って腰を下ろすと、レイチェルは待たせてすまなかったと言った。

「それはいいけど……保健室の中で何してたの?」

「生徒から悩みを聞いて欲しいとの要望がありましたので、個々に話を聞いていました」

 レイチェルの話だけ聞くと単なる『お悩み相談室』だが、それは自分を売り込むためのアピールタイムに他ならない。個人的な話をすることで少しでも、彼らはレイチェルの記憶に残りたかったのだろう。同じような騒動はアルヴァが表に出て来た時にもあった。アルヴァの場合は生徒に冷たかったので一過性のものだったが、レイチェルは一人一人の要望に見事に応えてしまう。これは長引きそうだと、葵は苦笑いを浮かべた。

「真面目だね、レイ」

「アルヴァの代理として、ここにいますから」

 無様な姿は見せられないと、レイチェルは毅然として言う。やること成すこと常人離れしている彼女だが、その芯にあるものは『弟思いのお姉ちゃん』だ。姉弟の在り方がだいぶ普遍的なものになってきたと思い、微笑ましく感じた葵は頬を緩ませた。

「レイみたいなお姉ちゃんがいて、アルは幸せ者だね」

「アオイ、それは逆です」

「逆?」

「アルヴァのような弟を持てた、わたくしが幸運なのです」

「…………」

 姉弟の話であるはずなのに恋人の惚気話を聞かされているようで、葵は妙な気恥ずかしさを覚えた。こういった胸裏を照れもせずに明かしてしまえるのがレイチェルという人物なのだろうが、聞かされる方はたまったものではない。それが身内なら尚のことで、葵は少し、アルヴァが意固地になっていた気持ちが分かったような気がした。

「ところで、アルはまだ……?」

「ええ。もう少し、お時間をいただければと思います」

「そっか」

「その確認のために、こちらにいらしたのですか?」

「それもあるんだけど、レイにちょっと頼みがあって」

 質問に答えながらスカートのポケットを探った葵は、そこから取り出した掌サイズの手帳をレイチェルに手渡した。受け取ったそれを、レイチェルはパラパラとめくっている。

「これは、公爵の連絡先ですか?」

「うん。あとは、もう行った分校を書き出してあるの」

 時の欠片を集めるにあたって、まだ訪れていない分校の数は六つ。トリニスタン魔法学園の分校は公爵達の私財なので、赴く際には事前に連絡を入れておくのが賢明だ。数人の公爵はすでに連絡先を入手していたが、残りの不明な者達の対処を、葵はアルヴァに頼んでいた。そのためアルヴァが不在の状況では、誰かに尋ねるしかない。

「そこに載ってない分校のこと、分かる?」

「はい。その公爵達に連絡を入れておけばよろしいですか?」

 さすがにレイチェルは、話が早かった。葵が頷くと、レイチェルはさっそく手紙を認め始める。それを魔法で送信してという作業を繰り返しているうちに、幾つかは返信も来ていた。

「概ね問題はないようです。まだ回答が来ていない方々も断られることはないと思われますので、ご安心下さい」

 作業を終えるとレイチェルはそう言い切った。しかしその直後、彼女は「ただ……」と言葉を重ねる。

「校医でいる間、わたくしはこの場を動くことが出来ません。クレアをこちらに戻しましょうか」

 レイチェルが校医の代理を務めている間、クレアは彼女に代わってユアン=S=フロックハートの傍にいる。それはクレアにとって何よりも大切な『仕事』であり、彼女にもユアンにも悪いと思った葵は首を振った。

「行きと帰りの転移魔法だけなんとかなれば大丈夫だと思うんだけど」

「マジスターには頼らないのですか?」

「ああ……うん、ちょっとね」

 マジスターはトリニスタン魔法学園のエリート集団であり、特にアステルダム分校のマジスターは優秀だ。彼らには転移魔法など造作もなく、実際これまでにも、葵は彼らに助けられて分校巡りをしてきた。しかし今は、以前と状況が違う。ある迷いもあって、葵はマジスターに頼ることを躊躇していた。そのため歯切れの悪い返答になってしまったのだが、レイチェルは言及してこない。そのまま彼女は、マジスターの助力を乞わないことを前提で話を進めてくれた。

「ゼロ大陸では人々の移動のために様々な場所に転移用の魔法陣が設けられています。独力で転移をすることが難しい方のための設備もありますので、そういった公共機関を利用してはいかがでしょう」

「へえ、そんなのあるんだ?」

 公共の交通機関とは、葵のいた世界で言うところの電車やバスのようだ。対価を支払う仕組みのようなのだが、それはアルヴァから渡されているはずのカードで済むとレイチェルは言う。

「ただ、トリニスタン魔法学園に直通の魔法陣はないと思われますので、徒歩での移動も考慮しなければなりません」

 トリニスタン魔法学園の生徒ともなれば、全員が平然と転移魔法を使用している。そのため公共の機関には需要がないのだろう。もともと魔法の存在しない世界で生活していた葵にとって、徒歩での移動はそれほど苦ではない。さっそく行動を起こすことにした葵は有益な情報を提供してくれたレイチェルに礼を言って、保健室を後にした。






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