言えない言葉

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 雲一つない夜空に月が二つ、上っていた。黄色味の強い月光は夏の時季に特有のもので、柔らかな明るさでもって夜の闇を払っている。ぽっかりと浮かんでいる月の下、クレアとオリヴァーはバルコニーに佇んでいた。この場所はクレアの私室から通じていて、葵と三人で夕食を取った後、彼らはここへ移動してきたのだ。明日予定があるという葵は私室に引き上げたため、今はいない。

「さっきのアオイの話聞いててさ、バラージュが言ってたことを思い出した」

 見るとはなしに月を仰ぎながら、オリヴァーは隣に立つクレアに向かって言葉を紡いだ。彼が話題に上らせたバラージュとは、召喚魔法を生み出した太古の魔法使いのことである。オリヴァーもクレアも、英霊として召喚された彼の人物と相対したことがある。そして異世界の娘と恋に落ちた彼の苦悩を、自分の耳で聞いたのだ。

「異世界に生まれついた者同士は出会わない方が幸せ、言うてたなぁ」

 クレアもまた鮮明に覚えているようで、バラージュの言葉を復唱してみせた。視線を移して見るとクレアも月を仰いでいて、その横顔には憂いの影が濃い。それは友人の幸福を願っているからで、オリヴァーも気持ちは同じだった。

「あの時、キルが怒ってたな。勝手に決めつけるなって」

 同じ状況下に置かれても、誰も彼もがバラージュと同じ結論に行く着くわけではない。自分は諦めたりせず、葵に着いて行くのだと、キリルは公衆の面前で断言していた。確かに彼の言う通りなのだが、果たしてキリルと同じことを言える者は世界に何人いるだろう。葵は、迷っている。葵を異世界の者と知りながら求めたハルは、この先どうするつもりなのか。

「もしかするとハルも、いなくなるかもしれないんだな」

「なんや、寂しいんか?」

「そりゃ、子供の時から一緒にいたからな。クレアだってアオイがいなくなったら寂しいだろ?」

「まあ、それはしゃーないわな」

 クレアが応えたところで会話が切れたため、二人は一時、黙して空を仰いでいた。胸に去来した切なさは不確かなもので、現実のものになるとしてもまだ先の話だ。葵とハルがどういう結末に行き着くのかは分からないが、願わくば、友人達には幸せであって欲しい。それはオリヴァーとクレアにとって共通した意識であり、言葉を交わさなくても、考えていることは同じだったのだろう。しばらくの静寂の後、クレアは幸せになってもらいたい別の友人のことについて、口火を切った。

「今日はどうやったんや?」

 主語はなくても、オリヴァーには質問の意図がすぐに通じた。もともと、その報告をするために来訪したこともあって、オリヴァーは口調に苦さを滲ませながら答えを口にする。

「キルに会って来た」

 瀕死のキリルを実兄であるハーヴェイに預けてからオリヴァーは毎日、彼の実家に足を運んでいた。だがキリルは面会謝絶の状態で、オリヴァーが見舞いの目的を果たせずにいたことは、クレアも知っている。それが今日は本人に会えたということで、クレアは目の色を変えて質問を重ねてきた。

「ほんまかいな。それで、様子はどうやったんや?」

 クレアは誰よりも、キリルの身を案じている。そんな彼女に、オリヴァーはすぐに答えてやることが出来なかった。他人の感情に敏感なクレアは、オリヴァーの態度から凶兆を察したようだ。辛そうに顔をしかめ、彼女は言葉を続ける。

「言葉に詰まるほど、悪いんやな」

「身体的には問題ないように見えた。ただ……」

 キリルは一言も、言葉を発することがなかった。面を被ったような顔は眉一つ動くことがなく、呼びかけてもまったく反応を示さない。同じ空間にオリヴァーという幼馴染みがいることすら、認識しているか危うい感じがあった。生ける屍とでも言うべきなのか、キリルはオリヴァーやクレアの知っている彼ではなくなってしまっていたのだ。言葉を選びながらそのことを伝えると、クレアは絶句してしまった。それでもまだ伝えるべきことがあったので、オリヴァーはゆっくりと話を続ける。

「実家で目を覚ました後は、しばらく急に暴れたりしてたらしい。それが日に日にぼんやりしてることが多くなって、今では暴れることもないみたいなんだ」

 それは、魔力が枯渇しかけて瀕死となった後遺症なのではないだろうか。そんな心配をしていたオリヴァーに、ハーヴェイはまったく別の私見を投げかけてきた。彼の考えによれば、キリルから人間らしい感情を奪って行ったのは心に受けた深い傷だというのだ。そして元凶があるのなら、それを取り除かなければならないとも、ハーヴェイは言っていた。

「キルの異常は失恋が原因だと、ハーヴェイさんは考えてる。その記憶がある以上、キルが元に戻ることはない。だからハーヴェイさんは、記憶操作の研究を始めたそうだ」

 もともとハーヴェイは、人体に作用する魔法を研究していた。その経歴を最大限に活用することで、記憶の一部分だけを消去するような魔法を開発しようというのだ。そして魔法が完成した暁には、ミヤジマ=アオイという少女との出会いそのものを、キリルから消し去るつもりだと明言していた。オリヴァーからそうした説明を受けると、それまで茫然としていたクレアは俄かに憤りを露わにした。

「なんや、それ。そないなこと、許されるはずないやん」

「だけど今のキルは、自分がキリル=エクランドだってことも分からなくなってる。ずっとそんな状態でいるくらいなら記憶の一部を失ったとしても、人間らしくいられる方がいいと思わないか?」

「思わへんわ! 他人に創り変えられた時点で、それはもうキリルやあらへん!! それに、何でやの? 何でおたくもハーヴェイ様も、もっとキリルを信じてやれへんのや」

 人間は誰しも、生きている限り心に傷を負う。他人から見れば些細なことであっても、当人にとっては立ち直れないほどの深手を負うこともあるだろう。しかし人間は、それを過去のものとすることで成長していく。一人で立ち直れないならば、周囲が手を貸してあげればいいだけの話なのだ。それは魔法など使わずとも出来ると、憤慨したクレアは一息に捲し立てた。彼女の怒りが心地良くて、黙って主張を聞いていたオリヴァーは小さく笑みを漏らす。それを見咎められて、クレアをさらに怒らせてしまった。

「なに笑っとんのや!」

「安心した。俺もクレアと同意見だからさ」

 それまで主張を闘わせていたと思われた相手に突然肯定されたことで、虚を突かれた様子のクレアはポカンと口を開けた。勘違いさせてしまったことを詫びた後、オリヴァーは穏やかに話を続ける。

「キルがあんなことになって、ハーヴェイさんは焦ってるんだと思う」

 普段のキリルを知る者が現在の彼を見れば、そのあまりの変わりように動揺を隠せないだろう。そんな状態の肉親を毎日見ていれば、早くなんとかしなくてはと考えるのは自然なことのように思える。だがハーヴェイのやり方は、あまりにも荒療治だ。話を聞いてそう思ったオリヴァーは、自分達がなんとかしてみせるから猶予をくれと、ハーヴェイに嘆願してきたのだった。

「なんとかって……どないするつもりなんや?」

 険を解いたクレアから至極当然の疑問が飛んで来たので、オリヴァーは苦笑いを浮かべながら答えた。

「どうしたらいいと思う?」

「……また、大見得切ったもんやな」

「頼もしい味方がいるからな」

 視線を合わせながら言うと、クレアは荒っぽい仕草で自身の髪を掻き上げた。やれやれという言葉が聞こえてきそうだったが、彼女から拒絶の空気は感じられない。互いにそういう性分であり、なによりクレアもオリヴァーも、キリルのことを好いているのだ。そして、キリルのために動くのは自分達が適任だという自覚もあった。

「ハルはともかくアオイには、このことは黙っておこうぜ」

「せやな。ただでさえいっぱいいっぱいやのに、これ以上抱え込んだらアオイがパンクしてまうわ」

 キリルに対して罪悪感を抱いている葵に彼のことを話すのは、落ち着いた後でいい。そう確認しあったクレアとオリヴァーはさらに話し合いを続け、ひとまずは毎日キリルの元に通うということで意見を一致させた。






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