(もう、いいよね)
今日、ハルとデートをするにあたって、葵はある決心を固めてきた。最初で最後になるかもしれないのだから、まずは純粋にデートを楽しむこと。そのうえで今の自分の気持ちをハルに伝えようと、そう思っていたのだ。特別何かがあったわけではないが、デートらしいことは楽しめた。そろそろ本題に入らなければならないと、葵は重い口を開く。
「あのね、ハルに話があるの」
「何?」
「私、元の世界に帰るかどうか、迷ってる」
葵が言葉を切ってからも、ハルからの反応は返って来なかった。ただ、それまで寝そべっていたハルは体を起こしていて、葵をじっと見つめている。それが言葉の続きを促しているのだと解釈した葵は息を吐いてから、再び口を開いた。
「オリヴァーとかから聞いてるかもしれないけど、いちおう、初めから説明するね」
葵が時の欠片を集めるためにトリニスタン魔法学園の分校巡りをしている間、ハルはずっと行方をくらませていた。アステルダム分校で行われた儀式には参加していたが、彼がどこまでの事情を知っているのかは不明だ。そのため葵は、時の欠片を集めることになった経緯から説明を始めた。
召喚魔法を生み出したバラージュという人物が英霊として召喚されたことで、彼の研究はユアンへと引き継がれた。バラージュは召喚魔法と対になる送還魔法も完成させていたから、これで葵が生まれ育った世界に帰る方法は確立した。しかし、問題が起きた。バラージュの送還魔法では時空を指定することが出来ず、生まれ育った世界に帰れたとしても、それは遥かな未来であるかもしれないことが分かったのだ。
葵が帰りたい時間と場所に着地するためには、時を操作する必要がある。そのため、この世界の時を司る精霊に助力を乞いたい。時の精霊は人間とは重なることのない時空に存在しているが、かつて人間は、彼の精霊を召喚することに成功したのだという。その召喚に使用された
「言えないことが多くてごめん。でも、約束だから」
この話の核となる時の精霊のことを話せないので、説明はどうしても曖昧になってしまう。それでもハルはなんとなく理解してくれたようで、特に文句を言ったりもしなかった。関心が薄いのかと思ってしまうほど、彼はいつもと変わらない。感情の読み取れない無表情が怖くて、葵は目を伏せながら話を続けた。
「実は、その
そしてマジック・アイテムが完成するまでに、生まれ育った世界に帰るかどうかの決断をする。そこまで話し切って、葵は口を噤んだ。
(……怖い)
何故、もっと早くに話さなかったのだと怒られるだろうか。それとも、自分という存在がありながら別の世界へ帰るのかと失望されるだろうか。そんな奴とは一緒にいられないと、別れを切り出されるかもしれない。そうした想像はどれも現実味が濃く、葵は震える手を必死で握りしめていた。耳が痛くなるような沈黙がしばらく続いたが、そのうちにハルが口を開く。返ってきたのは一言、「分かった」という言葉だけだった。
「……え?」
後に続く言葉がなかったため、拍子抜けした葵はポカンと口を開けた。顔を見ても、ハルには喜怒哀楽、どの感情も表れていない。これは理解したというだけで済まされる問題なのだろうかと、葵の方が思案に沈んでしまった。
「あと、どのくらい?」
「え? 何が?」
「その、
「ああ……。えっと、あと六つ」
「まだ日も落ちてないし、今から行く?」
まさかハルの方から提案してくるとは思いもよらず、葵は絶句した。その後、少し間を置いて、なんとか言葉を絞り出す。
「い、いいの?」
「? 何が?」
本当に理解していない様子で、ハルは小首を傾げた。難解すぎると思った葵は脱力しかけて、そのまま頭を下げることにした。
「じゃあ、お願いします」
「どこに行けばいい?」
問われた葵は答えようとして、公爵達の連絡先を認めた手帳を屋敷に置いてきたことを思い出した。そこにはまだ行っていない分校がリストアップされているのだが、名前を憶えていない。仕方がないので、葵は唯一覚えていたエッソー分校の名を挙げた。エッソー、エッソーと小さく独白しながら、眉根を寄せたハルは空を仰ぐ。どうやら場所が分からないようだ。
「魔法書、取ってくる」
葵に待っているよう言い残すと、ハルは草原に向かって歩き出した。転移魔法は通常、転移先の魔法陣が記された魔法書を手にして行うのだが、アステルダム分校のマジスター達は行き慣れた場所には魔法書を必要としない。ハルにとってエッソー分校は、魔法書を必要とするくらい馴染みのない場所ということだろう。それは理解出来るのだが、葵はハル達が、異次元を倉庫代わりに使っていることを知っている。そこから魔法書を取り出せば済む話だろうに、ハルは何故、草原の先を目指して歩いて行ったのか。その疑問は、程なくして戻って来たハルの口から説明された。答えは、他の分校なんて行かないから魔法陣が分からない、というものだった。
「エッソー分校の魔法陣がある魔法書を持ってない、ってことだよね?」
念のために葵が確認すると、ハルはそうだと頷く。では、いま手にしている魔法書はどこに取りに行ったのか。次なる疑問を口にすると、ハルは家だと答えた。
「いえ……家?」
「ここ、うちの庭。あっちの方に屋敷がある」
ハルは先程歩いて行った方角を示して見せたが、葵にはどこまでも草原が続いているようにしか見えなかった。よくよく話を聞いてみると、ここはリカルミトン公国で、肉眼では確認出来ない草原の先にあるのは、ハルの実家なのだという。この広さを『庭』と呼んでしまうあたり、葵は改めて、貴族の感覚を普通ではないと思った。
(知っては、いたけど)
この国の貴族……特に、ハルのような公爵家の『お坊ちゃん』はスケールが桁違いだ。自分がそんな人物の恋人を名乗っていいものなのか引け目を感じるし、この感覚の差を埋められるのだろうかと不安も覚える。だが魔法書のページをめくっているハルは葵の様子を気にすることもなく、手を差し伸べてきた。
「あった」
そう告げたハルが手を重ねるよう促したのは、転移を行うという合図以外の何物でもない。それが分かっていても葵は思わず、その手をじっと見つめてしまった。
(……今は、いいか)
腑に落ちないことも多々あるし、本当はもっと深く話し合わなければならない。しかし引け目も不安も、今は全てに目を瞑ることにして、葵は無心でハルの手を取った。
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