ローデリック=アスキス、二十七歳。東の大国であるスレイバル王国で王女の教育係を務める彼は、王立の名門校であるトリニスタン魔法学園を創設した者の血に連なる、生粋の貴族である。この国の貴族は子供をトリニスタン魔法学園に通わせることを習わしとしているが、王家に近しいアスキスは、その慣習を踏襲していない。そのためローデリックも学園に通っておらず、家庭教師から学ぶ中で、王族の教育係として必要な知識・所作を身に着けてきた。王女であるシャルロット=L=スレイバルが誕生するまで、彼はごく狭い範囲の中でしか生きてこなかったのだ。
シャルロットが誕生した時、ローデリックは十四歳だった。だが、その頃にはすでに一通りの教育を終えていたため、ローデリックはすぐに、シャルロットに仕えることとなった。以来、十三年。口数は少ないが、素直な性質の王女の成長を見守りながら、不平不満のない生活を送っている。ただ一点のみを、除いて。
「本当に来たのか」
王城内に与えられた私室で夜を過ごしていたローデリックは、約束通りに来訪した人物の姿を見ると大仰に美しい面を歪ませた。彼の紅の瞳が捉えたのは、金髪に碧眼の理知的な雰囲気を纏う女。彼女は名を、レイチェル=アロースミスという。
「そういう約束でしたから」
平然と応えたレイチェルは、常の無表情を崩していない。彼女は感情が面に表れることが少ない人物なのだが、この場面において尚も眉一つ動かさずにいることに、ローデリックはとんでもない厚かましさを感じた。その鉄面皮の下に一体どんな感情を隠しているのか、レイチェルは自ら歩み寄って来る。傍に立った彼女を、ローデリックは椅子から動かないままに見上げた。
ローデリックとレイチェルは昼間、一夜の営みを交わすことを約束した。それはローデリックが脅迫したことにレイチェルが屈したもので、二人の間には恋愛感情など存在しない。少なくともレイチェルは、そうだろう。五年ほど前、彼女はローデリックからの愛の告白を拒んでいるのだから。
『お断り致します』
ローデリックが恋人になって欲しいと告げた時、レイチェルはどのような感情も窺わせることなく、そう言ってのけた。彼女にとっては他愛のない出来事だったかもしれないが、ローデリックにとっては生まれて初めて、他人から否定された瞬間だったのである。あの衝撃は五年経った今でも、忘れようがない。それなのにレイチェルは平然として、今もあの時と同じ表情で、ここにいる。
席を立ったローデリックはレイチェルに触れることなく、仕草だけで「着いて来い」と促した。それに従ったレイチェルは、のこのこと寝室まで後を着いて来る。ベッドの前で立ち止まって振り返ると、そこには着飾ったレイチェルの姿があった。しかし依然として、その面に表情はない。次第に腹が立ってきて、乱暴にレイチェルの手を引いたローデリックは彼女の体をベッドに沈めた。手荒な扱いだっただろうに、レイチェルはそれでも不満を口にしない。ただキスを迫ると、彼女はストップをかけてきた。
「眼鏡を外します。お互いに危ないでしょうから」
至極冷静に言ってのけると、レイチェルは自身の顔から縁なしの眼鏡を引き抜いた。それを手近な台に置くために、彼女は一度体を起こす。組み敷いたレイチェルがいとも簡単に抜け出すのを許したローデリックは、脱力しそうになってベッドに腰を下ろした。
「……何故だ」
キスを拒まれた時、レイチェルがこの期に及んで自分を拒否したのだと思った。そう思った瞬間、ローデリックは少なからず安堵したのだ。それなのに彼女は、まだ続けようとする意思を見せる。滑稽すぎて皮肉に笑うことすら出来なかった。
「何か言いましたか?」
眼鏡を置いて戻って来たレイチェルが問いかけてきたので、ローデリックは溜まりに溜まった不満を爆発させた。
「君はわたしを愛してなどいない! それなのにこんなことをする、安い女なのか!?」
レイチェル=アロースミスというのは完璧な女だ。理知的な美貌が男を魅了するうえ、明晰な頭脳を持ち、世渡りも上手い。庶民の出自ながら、一体どれほどの貴族が彼女の虜になってきたことだろう。浮ついた噂は耳にタコが出来るほど聞いてきた。それでも彼女は誰も選ばない。独自に光り続けることの出来る、特別な存在だからだ。そんな彼女に、ローデリックは心を奪われた。今の彼女はもはや、レイチェル=アロースミスではない。
「もう、いい」
レイチェルをベッドに沈めた時は、彼女を滅茶苦茶にしてやろうと思った。それなのに思惑通りに行かなくて安堵したということは、自分など軽く凌駕して行く彼女を見たいと、心のどこかで期待していたからだろう。これ以上失望したくなくて、ローデリックはレイチェルに退室を促した。しかし彼女は立ち去ろうとせず、その場で静かに口火を切る。
「アスキス様に聞いていただきたいことがあります」
「……なんだ。世迷言なら、もうたくさんだぞ」
「五年前に交際をお断りした理由を、お話しいたします」
不意に過去の話を持ち出されて、レイチェルとの会話にうんざりしていたローデリックは眉根を寄せた。相変わらず眉一つ動かしていないレイチェルは淡々と、自分には想い人がいるから、その人物以外は眼中にないのだと言ってのける。予想外の発言に、ローデリックは動揺した声を発した。
「恋人がいるのか」
「確かめたことがないので確実に恋人と言えるお相手ではありません。ですが、おそらく、恋人と呼んでも問題はないかと思われます」
なんだそれはと、ローデリックは呻くしかなかった。どこの貴族なのかと尋ねてみれば、レイチェルは貴族ではないと答える。彼女の恋人らしき存在は幼馴染みの、庶民の男なのだそうだ。
「わたくしは、その男性以外と恋人という関係になろうとは思いません。ですから、他の方からのお誘いは全てお断りさせていただいております」
「……待て、レイチェル」
レイチェルがどんな貴族にもなびかない理由は、よく解った。しかしそうなってくると、解せない問題が浮き彫りになってくる。真意を確かめるために、頭を抱えるのを止めたローデリックはレイチェルを見据えて言葉を継いだ。
「君は今宵、その男を裏切るつもりだったのか?」
「裏切り、と思われても仕方がないかもしれません。ですが、わたくしの身一つで弟が救われるのでしたら、悩むことではないかと」
「恋人より肉親、というわけか」
「秤にかけるべきではないと思います。わたくしはいくらでも、やり直しがきくのですから」
恋人に不貞と思われたとしても、そこで終わりではない。彼の心を取り戻せるよう努力をすると、レイチェルは淡泊な口調のまま語った。たかだか庶民の男一人のために砕身するなど、彼女の口から出た言葉とは思えない。まるで別人と話をしているようだと、ローデリックは思った。
「何故……そんな話を今になってする?」
「アスキス様の幻想を、砕いて差し上げようと思ったからです」
胸裏を的確な言葉で表現されて、ローデリックはギクリとした。恋人の話をしている時のレイチェルはただの女に見えたのに、今の彼女はまるで別人のように思える。平素の、畏怖すら覚えさせる才人の顔だ。息を呑んだローデリックが何も言えずにいると、レイチェルは言葉を重ねた。
「わたくしのことを欲してくださる方ほど、本来のわたくしを知れば失望されるでしょう。ですからアスキス様には、本来のわたくしを知っていただきたかったのです」
欲する想いが強いほどに効力を有するのなら、それは抑止力以外の何物でもない。従順に見せかけながらも実際は、レイチェルに同衾するつもりなどなかったのだろう。ローデリックが途中で興を殺がれなければ、彼女は絶妙なタイミングで恋人の話を持ち出していたに違いない。いや、途中で興を殺がれたことさえも、彼女の策略だったのか。
「……どこまでも、狡猾な女だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
真顔のまま言い切ったレイチェルに、ローデリックは心底うんざりした。邪険に手を払って退室を促すと、レイチェルは低頭してから去って行く。彼女の気配が完全に失せると、ローデリックは溜めていた息をゆっくりと吐き出した。
レイチェル=アロースミスという女に抱いていた幻想は、今宵確かに砕かれた。彼女はローデリックが思っていたような人物ではなく、庶民の男に恋をするただの女だったのだ。それでも彼女は、やはりレイチェル=アロースミスだった。他者の思惑を軽々と握り潰し、最終的にはいつも自身の思惑で上塗りしてしまう手法など、流石としか言いようがない。
(何故、あんな女が存在するのだ)
決して手に入れることの出来ない、孤高の花。摘もうとして手を伸ばせば崖から滑り落ちてしまうのに、求めることをやめられない。虚しいだけだと理解しつつも焦がれる想いを消してしまえなくて、ローデリックは一人、夜の闇に紛れて頭を抱えた。
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