etc.ロマンス 番外編

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ハニィ・ムーン


 どこまでも続く青草の海の中に、おんぼろなアパルトマンが建っていた。天空に二つ浮かんでいる月のおかげで周囲は淡い光に照らされているが、明かりの灯っていないアパルトマンは大きな影と化している。そんな、人が住んでいるのかどうかも分からないアパルトマンの屋根の上に、一人の青年の姿があった。黒を基調とした髪の一部が月と同色の黄色に染まっている彼は、名をムーンという。夏の夜、虫の声さえも聞こえない静寂の中で、ムーンは長いこと屋根の上に座していた。彼は大草原の小さな家プティ・メゾン、ワケアリ荘の管理人をしているのだが、日々の暮らしの中でやるべきことは多くない。こうして屋根の上にいる以外は寝ているか、草原を無為に駆け回っているだけなのである。

 世界の境界である枯れた樹を遠望していると、やがて屋根の上に来訪者があった。鍵を使わずに多目的ルームの扉を開けたのは、ウルトラマリンの髪を肩口で切り揃えている少女。204号室の住人である彼女は名をレインという。ワケアリ荘では互いをニックネームで呼び合うため、レインもムーンも本名ではない。そしてレインというニックネームの彼女は、人間ですらなかった。

 レインとの出会いは、模造世界イミテーション・ワールドにワケアリ荘が誕生した時にまで遡る。この世界を創世したトリックスターという少年が、彼女を連れて来たのだ。そして彼女が雨の精霊という存在であることは、それから程なくして知ることになる。役目を終えた自分が間もなく世界に還るということまで、レイン自身が語ってくれたからだ。最近ではめっきり口数が減ってしまったが、入居当時の彼女は決して無口という性質ではなかった。少しずつ言葉が失われていったのは、レインが間もなく世界に還るということに関係している。世界に還るとは『世界に融合する』ということであり、個が全になることであるらしい。今の彼女は世界との融合を無理矢理に引き延ばしている状態のようで、時間をかけてゆっくりと、個が失われていっている最中なのだ。精霊にとって世界に還ることは幸福なことであるらしいのだが、自分の知るレインという少女が少しずつ薄れていくことを、ムーンは寂しいと感じていた。

「さみしいの?」

 隣に腰を下ろしたレインが、表情の浮かぶことのない面を向けて問いかけてきた。こちらを見据えてくる曇天色の瞳に、光は宿っていない。硝子のように自身を投影させる瞳を見つめ返しながら、ムーンは小さく頷いて見せた。

「寂しいよ」

 言葉に乗せた感情が本心であると、今、この瞬間は断言することが出来る。それは決して嘘ではないのだが、時が経てば、その想いが色褪せていくことをムーンは知っていた。これまでにも繰り返し、味わってきた虚無感だ。

 ムーンは月の満ち欠けによって姿を変える種族であり、人間の姿と猫の姿を併せ持っている。異世界からの来訪者である彼は生まれ育った世界にいた頃、群れで生活をしていた。しかしムーンが身を置いていた場所は普遍的な群れのようにルールなどはなく、出て行くのも戻って来るのも自由という気ままさだった。好きな時に眠り、好きな時に狩りをし、気が向けば群れの仲間と行動を共にする。互いに干渉しすぎない関係はひどく楽で、同時につまらないものでもあった。ぬるま湯に浸っているような居心地の良さと、抜け出せない泥沼にはまっているような居心地の悪さ。それを解消するためには群れを離れるより他なく、しかし時間が経てば、群れが恋しくなって結局は戻ってしまう。その繰り返しが、ムーンの人生だった。

 群れでの生活も、群れを離れた生活も嫌気がさした時、ムーンは自ら望んで世界の壁を越えた。もう二度と戻ることが出来ないのなら、群れに囚われることもなくなると考えたからだ。新天地での生活は一時、繰り返しの虚無を忘れさせてくれた。しかし異世界にいても故郷の月に体を支配されているように、群れへの執着も捨て去れてはいない。どこへ行っても、何をしても、結局は同じことなのだ。

「僕はね、レイン。いつか来る君との別れが惜しいと感じている。でもね、ダメなんだ。君の隣で安らいでいたくても、それは永遠のことじゃない」

 想いはいつか、必ず色褪せる。そしてどんなに大切にしていたものでも、捨てたくなってしまうのだ。捨てた後で戻ることが出来たとしても、もう二度と戻ることが叶わないとしても、結局は虚しさだけが残る。それはムーンがムーンである限り、永久に変わることのない業だ。ないものねだりを続けるのが自分の天命デスタンなのかもしれない。そうしたムーンの話を無言で聞いていたレインは、話が一段落したところで静かに口火を切った。

「いっしょに、行く?」

「どこへ?」

「せかい」

 レインの答えを聞いて、ムーンはしばし考え込んだ。この場合レインの言う『世界』とは、彼女が還るべき場所のことだろう。そこへ一緒に行くということは、共にこの世界に融けようということになるのか。

 世界に融けるということは『個』が失われて『全』になるということだ。ムーンがムーンという『個』である以上、ないものを欲しがることを止められない。しかし世界に融けてしまえば、それは『全』の思考となる。全てが溶けている世界では個の思考は全のものとなり、全の思考もまた個のものということになる。それはどちらでも同じということで、区別することに意味がない。そう説明してくれた後で、レインはもう少し言葉を続けた。

「でも世界に還ったら、触れ合うことはできなくなる」

 『個』は世界と自分を隔てる明確な境界線を持つ、孤独な存在である。それ故に別の個と触れ合うことが出来、そのことに愛おしさを感じるように出来ているのだ。それは個が有する特権であると聞き、身に覚えのあったムーンは月を仰いだ。ワケアリ荘はどこまでも続く青草の海の中にぽつんと存在していて、会話をする者がいなくなると虫の声さえも聞こえない静寂が訪れる。しかしその静けさは、階下から聞こえてきた話し声によって破られることになった。

 イミテーション・ワールドにワケアリ荘が創られた当初、そこに住んでいるのはムーンとレインの二人だけだった。しかしその後、トリックスターが次々にワケアリな者達を連れて来たため、現在では満室になっている。レインが204号室に入居したのを皮切りに、203号室はマッド、205号室にアッシュ、201号室には仔猫ちゃんキッティーと彼女のパートナーである魔法生物のマトが、それぞれ集ってきた。そして最近入居したばかりの202号室の住人は、ムーンと同じく異世界からの来訪者であるお嬢さんマドモワゼルである。階下から聞こえる声はキッティー・マッド・マドモワゼルのもので、何やら楽しげに揉めていた。

 新しい風であるマドモワゼルが現れてから、ワケアリ荘は以前にも増して賑やかになった。この和やかな賑わいはレインと二人だった時の静謐とは、また違った心地良さがある。しかしこの幸福も、時が経てばまた色褪せてしまう。幸福が幸福であるうちに往けるのなら、それは最高の幸せであるのかもしれなかった。

「世界に還るのは、いつ?」

 突き刺さるような胸の痛みを覚えながら、ムーンはレインに問いかけた。彼女は小さな声で、わからないと言う。

卵の殻コースがわれるまでいるって、約束したから」

 彼女が約束を交わす相手は一人しか思い当たらず、ムーンはこの世界を創造してくれた少年に思いを馳せながら立ち枯れている樹を見つめた。ここはトリックスターが、ムーンの故郷に似せて創ってくれた異空間。卵の殻が割れればレインだけでなく、この場所そのものも失うことになる。その瞬間、自分は何を思うのだろう。そんな、いつになるかも分からないことを考えながらムーンはレインに視線を戻した。

「僕はこの世界の者ではないけれど、世界は受け入れてくれるのかい?」

「世界はやさしいから」

「そう。それなら……」

 この世界が壊れてしまうまで、一緒にいよう。そう囁いて、ムーンはレインの手に自らの手を重ねた。







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