ハルと二ヶ月ぶりの再会を果たした後、葵が連れて行かれたのは現在ハルが住んでいるというマンションの一室だった。そこで聞いた話によると、ハルはこちらの世界へ来てすぐに、大手芸能事務所でマネージャーをしているという人物にスカウトされたらしい。ハルにスカウトの意味が解っているのかどうかは不明だが、あれよあれよという間に雑誌デビューを果たしてしまい、人気はうなぎのぼりなのだそうだ。そうした話を、葵は途中から合流したマネージャーだという人物から聞かされた。どうやらマンションの部屋は彼女のもので、ハルは居候という形で住まわせてもらっているようだ。
『そのマネージャーって、女なの?』
携帯電話の向こうから、弥也が訝しむ声が聞こえてきた。昨夜の出来事をかいつまんで説明した結果、そんなリアクションが返ってきたのだ。そしてそれは、葵も昨夜思ったことだった。
「そう。しかも、すごい美人」
『それ、大丈夫なの?』
「うーん、なんか、ハルがどれだけの素材なのかってことを熱く語ってくれたよ」
ハルを一流のモデルに育てるつもりだと熱弁を振るったマネージャーに、邪な感情はなさそうに思えた。それを聞いていたハルも平素の通りで、熱意もなければ関心も薄そうな様子だった。ただ彼は収入を得られるのならと言っていて、仕事自体はやりたいようだ。
『松本さんには相談した?』
弥也が洋子のことを話題に上らせたので、葵は昨夜の電話を思い返しながら返事をした。
「うん。昨日電話したらちょうど旦那さんが隣にいて、話聞いてもらった」
『なんて言ってた?』
「賛成だって。社会的な地位を持つことは大事だし、人気商売ならいざって時に世間が守ってくれるだろうって」
その『いざという時』がどういう時なのか、葵は理解を深めてはいなかった。しかし身元不明者の支援をしているという人物が言うのなら、聞き入れておいた方がいいことだろう。そうした話を聞かせると、電話の向こうで弥也が嘆息する。
『こんなに早く問題解決しちゃうなんて思わなかったよ』
「私も。調子よすぎて、なんか怖い」
弥也と話を続けながら、葵は眼前に待ち構えているゲートに目をやった。ここはドラマの撮影なども行われているスタジオで、今日のハルはここで仕事があるらしい。マネージャーの厚意で、葵は今から人生初のスタジオ見学をすることになっていた。そのことを説明すると、弥也は呆れたようにため息をついた。
『誰か芸能人に会ったらサインでももらってきてよ』
投げやりに「じゃあ」と言って、弥也は通話を打ち切ってしまう。携帯電話を鞄にしまった葵は弥也が喜ぶような芸能人に会えることを祈りながら、マネージャーからもらった通行証を使ってゲートをくぐった。
一言に撮影スタジオと言っても撮影所内は広く、しばらくウロウロした結果、葵は迷子になってしまった。歩き疲れたところで飲み物の自動販売機を見つけたため、ジュースを買って備え付けの椅子に腰を下ろす。途中で談話スペースのような場所も見てきたが、ここは通路の死角にあって他に人はいなかった。
(はあ……)
座った途端にどっと疲れたような気になったのは、なにも歩き疲れたからだけではない。場違いな所に来てしまったという実感が、気後れとなって神経をすり減らしたからだ。スタジオを行き交う人達は皆洗練されていて、熱意をもって働いている者達が集う場は活気に溢れている。その空気一つをとってみても、葵のような凡人には馴染まなかった。
(すごい所に来ちゃったな)
華やかな、芸能界。テレビ越しに見ていた時はミーハーに騒ぐことが楽しかったが、いざ自分が関係者になってみると純粋に楽しめない。やはり自分にはテレビの向こう側が居場所なのだ。そんなことを考えながら脱力していると、ふと、椅子に下ろした手に何かが触れた。
(チェーン?)
葵が座っている場所は幾つかの椅子が並べられているのだが、その合間に、シルバーのチェーンが挟まっていた。引き上げてみると、それが切れてしまったものであることが判る。椅子の隙間から床に何かが落ちているのが見えたので、葵はそれを拾い上げてみた。
(指輪だ)
それは非常にシンプルな、銀の指輪だった。飾り気はないが、指輪の内側に文字が彫られている。持ち主はこの指輪をチェーンに通していて、それが切れたことにより落下したのかもしれない。葵がぼんやりとそんなことを考えていると、壁の死角から突然人が現れた。驚いて席を立った葵は、その人物の顔を見るなり立ちすくむ。
(うそ……、うそ、うそ!)
その場に現れたのは葵が最も愛する芸能人、加藤大輝という少年だった。彼はバラエティ番組には出演しない、演技派の若手イケメン俳優である。その人となりを知るには雑誌のインタビューを見るか、たまにゲストで出演するラジオ番組を聞くしかない。異世界に行く直前まで、葵はそうした番組を全てチェックするほどのファンだった。そんな出会うはずのない人物が今、目の前にいる。
葵の姿を認めると、加藤大輝は自ら声をかけてきた。その内容はここで指輪が落ちているのを見なかったかというもので、興奮に頭を支配されていた葵はハッする。胸の前で思わず握りしめていた指輪を見せると、加藤大輝は心底安心したというように顔をほころばせた。
(う、うわぁ……)
今は素顔のはずなのに、たったそれだけのことがドラマのワンシーンのように絵になっている。葵から指輪を受け取ると、彼は何かを噛み締めるように「ありがとう」と口にした。
「あ、あの! ファンなんです! サインください!」
気が付けば叫んでいた葵は慌てて鞄を探り、手帳を取り出した。すると加藤大輝は快く、手帳を受け取ってくれる。弥也の分もサインをねだると、それも快諾してくれた。
「あ、ありがとうございます……」
あまりの出来事に感情がメーターを振り切ってしまい、葵は感涙しそうになりながら手帳を返してもらった。大袈裟に喜んだためか、加藤大輝は葵の様子を見てクスリと笑う。
「この指輪、とても大切な物なんだ。ちゃんとお礼したいから、良かったら後で連絡して」
「……へ?」
「アドレス書いておいた」
踵を返しながらそう言い残し、加藤大輝は去って行った。彼が手帳を指差していたような気がして、一人になった葵はページをめくってみる。そこにはサインが二枚と、また別のページにメールアドレスらしきものが書き記されていた。
(…………)
とても現実とは思えない、出会い。ただのファンから個人的な繋がりを持つに至る、奇跡のような出来事。これが異世界へ行く前に起こったことならば、後に続く少女漫画のような展開を夢見ていたかもしれない。だが一介の女子校生が決して出会うことのないロマンスなら、すでに異世界で経験してきた。許容量はもうとっくに超えていると、葵はサインだけを残してページを破り取った。
(ごめんなさい)
加藤大輝が去って行った方向に頭を下げて、手にした紙をさらに破る。復元出来そうもないことを念入りに確認してから、それをゴミ箱に放った葵はそこでもう一度頭を下げ、静かにその場を立ち去った。
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