etc.ロマンス 番外編

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Side Trip


 老齢の執事バトラーが私室を訪れたため、その部屋の主である青年は読むともなく開いていた本を閉ざした。灰色の髪に空色の瞳が印象的な彼は、名をアイネイアス=オールディントンという。執事がもたらしたのは来客の報せで、その内容を聞いたアイネイアスは微かに眉根を寄せた。来客に対応するか否か、その答えを執事に告げる前に、扉が開いて一人の少女が姿を見せる。彼女の登場によってアイネイアスは真顔に戻り、執事は一礼して部屋を出て行った。

「アイス」

 アイネイアスを愛称で呼ぶ少女は彼の婚約者フィアンンセであり、名をエリザベスという。アイネイアスは伯爵家の嫡男であり、エリザベスは侯爵家の息女である。この婚約はオールディントン家の繁栄のために、アイネイアスが五歳の時に組まれたものだ。よってそこに、アイネイアスの意思は介在していない。貴族の結婚には、よくある話だった。

「今日はね、紅茶を持ってきたの」

 とても上質な紅茶を仕入れたのだと、嬉しそうに語るエリザベスはソファーに腰を落ち着けた。その後も彼女は何かを喋っていたが、その全てが耳をすり抜けていく。貴族らしい華やかな笑顔が色彩を失って見えるのは、アイネイアスが彼女を歓迎する気持ちになれないからだった。望んで婚約をしたわけではないとはいえ、アイネイアスも初めはエリザベスを疎んでいたわけではない。少し年下の彼女はいつだって無邪気で、婚約者というよりは妹のような存在として、慈しみを覚えていた時期もある。それでもいずれは彼女と結婚するのだと、そう、思っていた。その『当然』が崩れたのは、アイネイアスがトリニスタン魔法学園の本校から逃げ出した時だ。

 トリニスタン魔法学園は王立の名門校であり、貴族の子供は学園に通うことが通例化している。特に本校は侯爵以上の家柄でないと入学すらままならず、伯爵家の子息であるアイネイアスが本校に入学出来たのは、偏にオールディントン家の財力が物を言ったからである。一人息子であるために、両親はどうしてもアイネイアスを本校に通わせたかった。しかし期待を一身に背負って本校に入学したものの、アイネイアスはそこで抗いようのない挫折を経験してしまった。

 本校から逃げ出した後、アイネイアスは家に帰ることが出来なかった。そのため路地裏の片隅で膝を抱いて死を待つような、そんな日々を送っていた。そこである出会いがあり、アイネイアスはとある人物から特殊な住居を提供された。そこで、アイネイアス=オールディントンという貴族の子息ではなく、アッシュという名の一個人となったのだ。ひとまず生きていけることになった時、捨て去った家や婚約者は恐れの対象にしかならなかった。見付かって連れ戻されたらどうしようと、そんな考えしか浮かんでこなかったのだから、エリザベスとの関係はあの時に破綻したと言うより他ない。

「……まだ、怒っているの?」

 ふと、エリザベスの言葉が耳を突いた。目を向けてみると、それまで上機嫌にしていた彼女はいつの間にか表情を曇らせている。それまでの話は聞いていなかったが、何を問われているのかは解った。しかし返す言葉は見当たらず、アイネイアスは無言で目を伏せる。そのまま視線を逸らすと、エリザベスのいる方向から泣き声が聞こえてきた。

「何か言ってよ、アイス」

 視線を戻してみれば、エリザベスが顔を覆って肩を震わせている。そんな彼女をどう思えばいいのか分からず、アイネイアスは密かにため息をついた。

 ある特殊なアパルトマンで暮らしていた時、アイネイアスはエリザベスとは別の女性に思いを寄せていた。その少女とは恋人という関係になれたのだが、エリザベスが現れたことによって、その関係は終わりを迎えることとなった。この、目の前で泣き崩れている少女さえ、自分の前に現れなければ。そう、思ったこともある。だが元恋人から別れの真意を聞かされた今となっては、エリザベスの行動もどうでもいいことのように思われた。

 アイネイアスの元恋人である少女――ミヤジマ=アオイという名の彼女は、自分はエリザベスほどアイネイアスのことを想えないと、別れの理由を語った。その程度の想いだったのならエリザベスが現れなくとも、遠からず同じ末路を辿っていただろう。エリザベスのことは単なる契機でしかなかったのだ。全てが終わった今となっては、そうした諦めもつく。だが元恋人を醜く罵倒したエリザベスを、再び好きになろうとは思えなかった。

 街中での邂逅を経てエリザベスが再び目の前に現れた夜、アイネイアスはそれまで隠れ住んでいた場所を失った。他に行くあてもなく、また多くを語らずに姿を消してしまった元恋人を探したいという思いもあって、その後は家に戻ることを選択した。父に頭を下げて許しを乞うたのは、話し合いをすればやり直せるのではないかという淡い期待を抱いていたからだ。しかし夢想は、完膚なきまでに打ち砕かれてしまった。アイネイアスに残ったのは貴族として生きる道だけで、そうなると必然的に、エリザベスとも上手くやっていかなければならない。だがわだかまりが残る自分の心も、過去をなかったことにしたいエリザベスのことも、アイネイアスは持て余していた。

「失礼致します」

 未だ泣き続けているエリザベスに声をかけられずにいると、老齢の執事が再び姿を現した。室内の異様な空気に一瞬だけ眉をひそめたものの、執事は足早にアイネイアスの傍へ寄る。そして耳元で、新たな来訪者があったことを告げた。

「ユアン=S=フロックハート様がお見えになっています」

 執事が口にした名に、アイネイアスは眉根を寄せた。その名が持つ意味は、貴族であれば誰でも知っている。だが来訪の理由に見当がつかず、アイネイアスは困惑しながら執事に応えた。

「父は外出中だったな。僕が応対するので急ぎ、連絡を」

「いえ、旦那様ではなく、アイネイアス様にお会いしたいと」

 すでに廊下にいるのだと聞かされて、アイネイアスは二重の意味で愕然とした。未来の国王が面識もない自分に会いに来たこともさることながら、こういった場合、来客は客間に通すのが礼儀である。それを、重要という言葉では足りないほどの人物を廊下で待たせているというのだ。

「どうしても、と仰られましたので……」

 弱ったように眉を下げる執事の言葉を、アイネイアスはもう聞いていなかった。急いで廊下に出ようとした刹那、半開きになっていた扉から噂の主が姿を覗かせる。そうして現れた人物を見て、アイネイアスは可能な限り目を見開いた。

「会ってくれないかもと思ったらから勝手に来ちゃった」

 愛らしい笑顔を見せながら快活に言葉を紡いだのは、少年。金髪に紫色の瞳といった容貌をしている彼は、行き場のなかったアイネイアスに特殊なアパルトマンを紹介してくれた人物だ。彼の後ろには金髪に碧眼の女性が控えている。縁のない眼鏡をかけた理知的な雰囲気の彼女は有名人で、アイネイアスも顔と名前を知っていた。天才、レイチェル=アロースミスである。

「レイ、」

 室内に進入してきた少年はエリザベスを一瞥してから、レイチェルに声をかけた。無言で頷いたレイチェルは呆気に取られているエリザベスと執事を促し、部屋を後にする。ユアン=S=フロックハートを名乗る少年は二人きりになると、笑みを浮かべながら久しぶりだと声をかけてきた。その様子はアイネイアスのよく知る、トリックスターという愛称の少年と同じだった。

「ユアン……S、フロックハート?」

「そう。僕の真名バプティスマ・ネーム

 あっけらかんと頷いたユアンに、悪びれた様子は微塵もない。信じられない思いで、アイネイアスは言葉を続けた。

「知っていたのか? 初めから、何もかも」

 薄暗い路地裏で膝を抱えていたアイネイアスに声をかけて来た彼は、何故そうしているのかと尋ねてこなかった。その後も親交はあったが、出自や事情を問われたことは一度もない。偶然の出会いだったと、疑いもしなかった。だが初めから知っていたのだとしたら……。

(うらびれた僕を見て、嘲笑っていたということか)

 皮肉に口元を歪めると、もう怒りが抑えられなかった。対峙している人物が誰であるのかも忘れて、アイネイアスは楽しかったかと問うてみる。するとユアンは満面の笑みを浮かべた。

「落ち込んでるかと思ってたけど、怒れるようなら大丈夫だね」

 ユアンが破顔して発した一言に、アイネイアスは不意を突かれた。意味を汲めずに黙っていると、ユアンはすまなさそうな表情になって言葉を重ねる。

「ごめん、アオイとのこと知ってるんだ」

 元恋人だった少女の名を出されたことで、アイネイアスは一気に毒気を抜かれてしまった。そのことを心配して、彼は見舞いに来たというのだろうか。互いの正体が知れた以上、どこまでが本気かは分からないが、再び彼を罵ろうという気概はすっかり失われてしまっている。そうしたアイネイアスを見て、ユアンはさらに言葉を続けた。

「さっきの答えだけど、路地裏で声をかけた時は知らなかったよ。だから、後で調べて驚いた」

 まさか貴族とは思わなかったと、ユアンは苦笑いをしながら語る。アイネイアスは嘆息して、彼にソファーを勧めた。

「数々の御無礼、お許しください」

 ユアンが席に着き、紅茶を用意したところで、アイネイアスはこれまでの非礼を詫びた。するとユアンは嫌な顔をして、口をへの字に曲げて見せる。

「今まで通り話してよ。僕はまだ、ただの国民なんだから」

「貴方がユアン様であると知れた以上、そういうわけにはまいりません」

「カタいなぁ。だからイヤだったんだよ」

 それなら命令だと言って、ユアンはこれまで通りの態度を強要してきた。命じられてしまっては仕方がなく、アイネイアスは呆れながら口調を崩す。

「それなら何故、真名バプティスマ・ネームを明かしたりしたんだ。見舞いだけならトリックスターとして会いに来てくれれば良かったのに」

 しかも、わざわざレイチェル=アロースミスまで引き連れて……。そう言おうとしたところで、アイネイアスはハッとした。ユアンは未来の国王だが現在はまだ一国民という身であり、貴族でも大多数の者が彼の顔を知らない。だから彼がトリックスターとして会いに来たとしても、訝しむ者などいなかったのだ。それなのに彼は、レイチェルを伴って現れた。レイチェルの存在は広く知られており、彼女が未来の国王を教育しているというのは有名な話だ。つまりレイチェルと行動を共にしていれば自分がユアン=S=フロックハートであると、名乗っているも同然なのだ。

(これは……)

 自分が導き出した答えに愕然としながら、アイネイアスはユアンを見た。しかし答え合わせをする前に、ユアンは悠然と微笑んで見せる。その様子から察するに、どうやら都合のいい解釈というわけでもなさそうだった。

 父に頭を下げたことで家には戻れたものの、オールディントン家でのアイネイアスの立場は決して盤石なものとは言えなかった。期待は失望に変わり、両親どころか私的に使っている者達でさえも、アイネイアスを蔑視している。それでも再びオールディントンを名乗ることを許されたのは、エリザベスと結婚して子を成すという唯一の役目が存在していたからだ。生まれてくる子を優秀に育てさえすれば、父親は凡愚でも構わない。それが今の、オールディントン家の総意だ。しかしアイネイアスがユアン=S=フロックハートと懇意であるというのなら、この構図は大きく変わることとなる。そのためにユアンは真名を明かし、レイチェルを伴ってここへ来たのだ。

「何故……」

 未来の国王ともあろう者に、そこまでしてもらえる理由が分からない。ありがたいと思うよりも困惑が先立って、アイネイアスは半ばうわごとのように言葉を紡いだ。茫然自失の問いかけであったにも関わらず、ユアンは真っ向から答えをくれる。

「人の上に立つのが、僕の天命デスタンだから。出会いは大切にすることにしてるんだ」

 そう言った彼の顔は、アイネイアスの知る無邪気な少年のものではなかった。席を立ったアイネイアスはユアンの足元で跪き、自然と臣下の礼をとる。

「トリニスタン魔法学園を去った時に全てを失ったと思っていました。けれどこれからは、貴方のために生きることにします」

「うん。そうなってくれるといいなって思ってた。でも他に人がいない時は、これまで通りでよろしくね?」

 博愛にも似た寛容さを見せてくれた未来の主君は、そう言うと少年の顔に戻って笑った。アイネイアスは胸に手を当てて、これからの道まで示したくれたユアンに微笑みを返す。再び、貴族として生きる。それが虚無ではなく誇りに変わったことに、この上ない喜びを感じながら。

「ユアン様、お話し中に失礼致します」

 扉を叩く軽い音の後に、先程部屋を出て行ったレイチェルが再び姿を現した。彼女は跪いていたアイネイアスが姿勢を正すのを待ってから、ユアンに向かって言葉を重ねる。

「オールディントン伯爵がお戻りになられたようです。ユアン様との面会を希望されていますが、如何なさいますか?」

「あれ、外出中じゃなかったの?」

「ユアン様の来訪を聞き、急いでお戻りになられたそうです」

「そっか。じゃあ、無下には出来ないね」

 そこでレイチェルとの会話を切り上げると、ユアンはアイネイアスを振り向いた。一緒に行こうかと促されたので、アイネイアスは頷いて見せる。その後、自室から客間に移動したアイネイアスは厳格な父が、終始冷や汗をかいている様を初めて目にすることになるのだった。







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