真夏の太陽光が厳しい八月の下旬、夏の王者を決めるインターハイを終えた
「何だよ」
「あそこ」
振り向いた渡部に、国松はあらぬ方向を指し示す。国松の指の先を目で追った渡部は、その場所に他校生が佇んでいるのを見て微かに顔を引きつらせた。
「先行ってる」
それだけを告げると国松は渡部を置いて行ってしまった。取り残された渡部は仕方なく、校舎の影になっている通路に佇んでいる部外者の方へ歩き出す。男子校である花郷高校に本来いるはずのない女の正体は、私服姿の北沢朝香だった。
「お疲れ」
顔を突き合わせるなり短く言って、朝香は手にしていたタッパーを差し出してきた。その中身に目を落とした渡部は小さく息を吐き、朝香を誘導するために歩き出す。グラウンドからも校舎からも死角になっている場所で足を止めた渡部は真顔のまま朝香を振り返った。
「こういうの、やめてくれよ」
差し入れとしてもたらされたハチミツ漬けのレモンを指し、渡部はきっぱりと迷惑であることを告げた。朝香がこうして差し入れを持ってくるおかげで、先輩からも後輩からも同級生からもひやかされるのである。
「運動部への差し入れと言えばこれでしょ?」
迷惑だと言われてもめげることなく、朝香は眉一つ動かさずにそんなことを言ってのける。渡部は途方に暮れて晴れ渡った夏空を仰いだ。
渡部と朝香の付き合いは小学校低学年にまで遡ることが出来る。同じ小学校に通っていた彼らは遊び仲間であり、小学校低学年の頃は学校が終わると一緒にサッカーをした仲なのだ。それが小学校の高学年になると、朝香はサッカーをしなくなった。その頃に料理の楽しみを覚えた彼女は一緒になって走り回ることをしなくなった代わりに、渡部によくお菓子を作ってきてくれるようになったのだ。
その頃はまだ甘いものが苦手ではなかった渡部も、くれるならと朝香から色々なものをもらっていた。だが小学校の高学年ともなるとそうした光景はひやかしの餌食であり、渡部は次第に朝香から物をもらうことに躊躇いを覚えるようになっていった。しかし男子と一緒になって遊ぶことはしなくなったものの朝香が男勝りな子供であったことには変わりがなく、彼女はやかましく騒ぎ立てるクラスメートを腕尽くで黙らせたのだ。それ以来誰も何も言わなくなったので、朝香から手作りの物をもらう習慣は小学校を卒業するまで続いたのだった。
中学に入って本格的にサッカーに打ち込むようになると、何故か味覚が変わって甘いものが苦手になった。渡部がそのことを話して断った時から、差し入れはぱったりなくなった。中学生になって急に女らしくなってしまった朝香とどう接していいのか分からなくなってしまった渡部が距離を置きたがったこともあり、彼らは次第に疎遠になっていったのである。だが中学二年生のバレンタイデーに、渡部は朝香から思いも寄らぬ告白を受けた。しかしその時には別の中学に彼女がいたので、彼はチョコレートを受け取ることなく断ったのである。それきり接点のないまま、彼らは中学を卒業した。
高校に入学してしばらくすると、中学の時から付き合っていた彼女から別れを切り出された。その理由は、渡部が忙しくてなかなか会えないので辛いというものだった。元彼女と未練の残る別れ方をした年の秋、渡部は花郷高校の文化祭に顔を出した朝香と再会を果たしたのである。彼女とまともに話をしたのはあのバレンタインデー以来のことだったが、朝香は何事もなかったかのように接してくれた。気楽な関係に戻れたと、渡部は密かにホッとしていたのだ。
文化祭の後、渡部と朝香の関係は友達に戻ったかと思われた。だが朝香の友人である倉科マイが余計な気を回していることに気がついてしまい、渡部はクリスマスの夜にキレてしまったのである。その現場をよりにもよって朝香に見られていたらしく、彼女は一人で帰ろうとしていた渡部を追いかけてきた。そして再び、好きだと告白されてしまったのである。元彼女への未練もまだ断ち切れていなかったので、渡部は友達でいてほしいと断った。しかしそれでも、彼女は諦めなかった。そしてバレンタインデーに、チョコレートではなくフルーツ盛りだくさんのゼリーをもらってしまったのである。
「バレンタインの時は思わず受け取っちゃったけど、俺、やっぱり北沢のことは友達としてしか見れない」
「……何で? あたしと前の彼女と、何が違うの?」
必死な顔をしている朝香に問い返され、渡部は言葉を失った。すぐには答えられなかったものの、やがて渡部は小さく首を振る。
中学に入って女子の制服を身に着けた朝香を『女の子』として意識してしまった時、渡部は彼女のことを『友達』だと強烈に思い込むことでそれまでと同じ距離を保とうとした。結果はあまりうまくいかなかったのだが、その時の暗示まがいの思いが未だに思考を縛っているのだ。幼少期を男友達同然として過ごしてきた彼女に対する呪縛からは、なかなか抜け出せそうにないというのが実情だった。
「北沢のことはずっと友達だと思ってたから。そう簡単には、変えられない」
「……分かった」
涙を堪えているのか平素より低い声で呟き、朝香は顔を伏せた。可哀想だが、どうしようもない。そう思った渡部は重いため息をついたのだが朝香はすぐ、睨み見るように顔を上げた。
「渡部が変えられないならあたしが変える」
一息に言い放った後、朝香は唐突に口唇を重ねてきた。「えっ?」と思う間もないほどの早業に、渡部は目を見張ったまま呆然と立ち尽くす。呆けている渡部の手にハチミツ漬けのレモンが詰まったタッパーを握らせ、朝香は無言で踵を返した。
朝香の姿が完全に見えなくなってしまってから、渡部はその場にしゃがみ込んだ。すでに太陽に熱されている体を種類の違う熱が駆け巡る。やわらかな口唇の感触と久しぶりに間近で感じた女の子のにおいが強烈で、渡部は頭を抱えた。
「まいった……」
蚊の鳴くような声で零された渡部の独り言は誰の耳にも届くことなく、ただ彼自身の胸に汗と一緒に沁み込んでいった。
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