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● あのヒコーキが落ちる方  ●

 外へ出ると青空が広がっていた。夏らしく入道雲が浮かんでいるが、暗色ではないので夕立の心配はなさそうだ。夕方になってもまだ辺りは明るく、気温も下がっていない。電柱や民家の壁にとまった蝉が、やかましいほど鳴いていた。やかましいと言えば、この辺りでは蝉の他にも騒音の元となっているものがある。蝉の鳴き声よりもはるかにうるさい鉄の塊がちょうど頭上を通過して行ったので、俺は雲の多い夏の青空を仰いだ。

「パパぁ」

 まだ舌足らずに俺を呼ぶ娘の声がしたので、後にしてきた玄関を振り返る。俺の実家から出てきたのは麦藁帽子をかぶった子供たちとカミさんだった。

 俺たちは今、盆休みを利用して俺の実家へ遊びに来ている。そろそろ夕方の頃合だがまだ暑いので、爺さんと婆さんは家の中にいるのだろう。だが子供たちは暑さなど物ともせず、息子は虫取り網を、娘は虫かごを、それぞれに抱えていた。カミさんに連れられて、きっと公園にでも行くのだろう。

「どこか行くの?」

 カミさんが俺に声をかけてきた。煙草を買いに行く旨をカミさんに伝え、子供達と別れて住宅街を歩き出す。間もなく、背後で子供達の声が上がった。

「あ、ヒコーキ!」

「でっかいね!」

 息子と娘のそんな声がした後、遠くから耳鳴りのような音が聞こえてきた。それは次第に近付いてきて、会話する声すら聞き取れないほどの騒音を撒き散らしながら俺たちの頭上を飛び越えて行く。俺の実家は基地に近いため、軍用機の姿を見かけることが珍しくないのだ。

 この辺りに住んでいた頃は、この飛行機の音が嫌いだった。何故なら住宅に防音工事を施していてもうるさく、窓を開けたままでは昼寝も出来ないほどだったからだ。しかしこの土地を離れてみると、たまに帰って来て聞く騒音を懐かしくさえ感じる。住んでいた頃は迷惑極まりないと思っていたのに、人間とは現金なものだ。

 似たような造りの道路を進み、俺は住宅街の一角にある煙草屋に辿り着いた。都内にいる時はコンビニで買うが、この辺りにはコンビニがない。タスポを持っていないので自動販売機で買うことが出来ず、俺は営業しているのか分からない無人の窓口に向かった。しかしガラス戸を開けて声をかけてみても、誰も出てこない。仕方がなく、隣接している化粧品販売店を覗いてみることにした。

 化粧品店の方で無事に煙草を買い、外へ出ると暑さが身に染みた。冷房の効いた店内にいたのは五分くらいだったのに、いったん引いてしまった汗がどっと噴き出してくる。汗を拭いながら来た道を引き返していたら、また飛行機が飛んできた。俺の正面から向かってきた軍用機はかなり低空で飛んでいて、さらに高度を下げながら基地がある方角へ去って行く。その姿を振り返って見送ってしまったのは、夏の空に映えるメタリックな輝きが子供の頃の記憶を呼び覚ましたからだ。

『あのヒコーキが落ちる方へ行ってみない?』

 そう言って俺を誘ったのは、友人の神林だった。そんな神林の言葉に胸が躍ったのは、確か小学生の五年か六年だったような気がする。まだ子供だった俺たちの世界は狭く、でっぷりとした軍用機が落ちて行く先に何があるのか知らなかった。あの夏の日にヒコーキを追いかけることは、当時の俺たちにとっては大冒険だったのだ。

 かくして、神林が思いつきで放った一言により俺たちの冒険は始まった。太陽がギラギラと照りつける炎天の下、愛車(マウンテンバイク)に跨った俺たちはヒコーキが姿を現すのを待った。入道雲が浮かぶ空へ上って行くヒコーキは見送り、高度を下げながら山の向こう側へと姿を消すヒコーキだけを狙ったのだ。雲を突き抜けて姿を消してしまうヒコーキはすぐ行方知れずになってしまうが、落ちて行くヒコーキならば大体の方角を見定めることが出来たからだ。

 やがて、俺たちの背後から耳鳴りのような異音が近付いて来た。大気を震わせながらやって来たヒコーキは俺たちの頭上を飛び越え、俺たちが見据えている川向こうへと落ちて行く。その後を追って、俺たちはマウンテンバイクを走らせた。当時の俺たちがいた場所から橋を渡って川向こうへ行くと、その先には丘陵がある。家に帰るつもりがいつの間にか橋を渡っていて、俺はあの夏の日に汗だくになりながら上った坂道にさしかかっていた。地名に『山』の名がついているこの丘陵を上れば、頂上には駅がある。駅を越えてさらに先へ進むと自衛隊の基地があるのだ。この坂は自転車でも徒歩でも苦しい傾斜だが、俺は久しぶりに坂を上り始めた。

 住宅街では立替が進んでいて実家の周辺は様変わりしてしまったが、この坂道は俺が子供だった頃と変わらない。俺の右手にある、どこまでも続いているような自然公園の並木が青々とした葉を茂らせていることがそう感じさせる要因かもしれない。春になれば薄紅色に色づくこの並木も今は蝉たちのアジトになっていて、激しく窓を叩く夕立のように蝉時雨が降り注いでいる。

 二十分かけて坂を上りきると、俺の着ていたシャツには見るも鮮やかな汗染みができていた。子供の頃はこの坂を立ち漕ぎで上りきり、さらに自転車を走らせるだけの脚力があったものだが、せいぜい通勤の階段昇降が運動になってしまっている今の俺には辛いことこの上ない。本当は丘陵の頂にある駅を越えて基地まで行こうと思っていたのだが、さすがに無理だ。坂を下る元気も残されていなかったので帰りはバスを利用することに決め、俺は肩で息をしながら駅の方へ向かった。

 駅の横にあるコンビニで冷たい飲み物を買ってから、俺はバスを待つ人の列に紛れ込んだ。屋根のある場所からはみ出してしまったので太陽が容赦なく照り付けているが、冷たいペットボトルのおかげで渇きは癒えた。帰ったらシャワーだなと考えていると、俺たちの頭上を再び軍用機が通過していく。川向こうで見た時よりもヒコーキとの距離が近く、俺はまた基地の方を振り返ってしまった。

 あの夏の日、俺たちの大冒険はヒコーキが着陸する姿を見ることなく幕を下ろした。発着場は基地の奥まった場所にあるため、この駅の辺りが追いかける限界だったのだ。だがそんなことを知らない当時の俺たちはヒコーキが姿を消した場所を探して基地の周辺を走り回った。そして、大冒険にふさわしくない間抜けな結末へと行き着く。俺たちの住んでいた場所から川向こうにあるこの近辺は小学生の行動範囲から外れていて、うろついた挙句に迷子になってしまったというオチがつくのだ。

 まだ携帯電話などというものがなかった時代、所持金もなかった俺たちが助けを求めたのが、この駅から十分ほど歩いた所にある警察署だった。俺たちはその後、自転車に跨った警察官に先導されて家路を辿ることになるのだが予め保護者に連絡を入れられていたため、家で待ち構えていた両親にこっぴどく怒られた。それは共に冒険へと走り出した神林も同じだったらしい。

 懐かしい出来事を思い返していたら自然と頬が緩んでしまい、俺は無表情を努めながら顔を戻した。すると、改札を出た所で空を仰いでいる男の姿が目に留まった。彼は空模様を確認している風ではなく、俺と同じように基地の方を仰いでいる。その姿は改札から出て来た人の流れに反していて、妙に印象的だった。

 ヒコーキが去ってしばらくすると、立ち尽くして空を仰いでいた男がこちらへ向かって来た。徐々に近付いてくる彼の顔に見覚えがあるような気がして目を細める。まさかとは思いながらも、俺は通り過ぎて行った男を呼び止めるために一歩を踏み出していた。

「神林、……さん?」

 人違いだったら恥ずかしいので、恐る恐る声をかける。すると彼は立ち止まり、訝しそうな顔を俺に向けてきた。

「そうですけど……どなたですか?」

 彼の反応に俺は耳を疑った。本当に、あの神林なのか? いや、あの神林だ。今目の前にいる男の顔には確かに、俺の記憶の中にいる神林の面影がある。

「小学校が同じだった福井だよ。覚えてないか?」

「フクイ……? フクイ、アキラ?」

「そうそう、俺だよ!」

「あの福井なのか!?」

 神林が俺の名前を思い出してくれたところで改めて感動が湧き上がってきた。こんなことってあるんだな。あのヒコーキが落ちる方へ来てみたら神林に会えるなんて!

「俺も今、ちょうど福井のこと考えてたんだよ」

 あのヒコーキが落ちてきたからと、神林は言う。嬉しいことに、やっぱり彼もあの夏の日を思い出して空を仰いでいたようだ。

 色々と積もる話もあるが、とりあえず歩き出そう。何もないこの駅前から離れて、今度はあのヒコーキが飛んで行く方へ向かって。そしてその先にある飲み屋で、渇いた喉をビールで潤しながらあの頃の話をしようじゃないか。





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