空隙

 その知らせを受け取った津田雅彦は、ついに来たと思って颯爽と走り出した。自宅を出た彼が向かった先はとある病院である。

 雅彦は幼少の頃よりある思いを抱いていた。彼はその思いを伝える日を予め決めており今か今かと待ち続けていた。そしてついに、その思いを伝える日がやって来たのである。

 自宅から車で二十分ほどの所にある病院に到着した雅彦は脇目も振らず父のいる病室を目指した。雅彦の父が入院しているのは個室だが、これは雅彦の父がこの病院に勤めていたための待遇である。病室にはすでに縁故の者達が集まっており、雅彦の父は床上で苦しげに喘いでいた。

「雅彦さん」

 雅彦の姿を認めた親族が声を上げ、ベッドに誘導する。ベッドの周囲に集まっていた親族達は危篤者が息子と対面を果たすために場を譲った。枕元に立った雅彦は、じっと父の苦しげな姿を見据える。

 医者であった雅彦の父親は息子を医学の道へ進ませるべく英才教育を施してきた。そのため雅彦には幼少の頃より遊ぶ暇などなかったのである。

 父の教育方針に反発した雅彦は医者にはならなかった。そして自身も家庭を築いた現在、雅彦は自分の選んだ道が間違いではなかったと強く感じていた。勉強が嫌いと言う子供達は遊びまわり、自身で感性を育てている。そして妻もまた、そんな子供達を見て嬉しそうに微笑んでいるのだ。そういった幸せは雅彦が子供であった頃にはなかったものだった。

 雅彦は父から目を上げ、チラリと母の様子を窺った。ベッドの反対側――ちょうど雅彦の正面――に立つ雅彦の母は、涙ぐみながら病床の父の手を握っている。確かな愛情を目にした雅彦は再び父に目を注ぎ、父の目が雅彦を見ていることを確認してから口を開いた。

「母さん」

 雅彦は父に目を注ぎながら母を呼んだ。雅彦の母は父の様子に気を配りながらも息子に目を向ける。視界の外で母親の顔がこちらに向いたことを認めた雅彦は言葉を続けた。

「本波医師は元気かい?」

 微笑みながら母を見た雅彦は、母の驚愕の表情を目にした。雅彦は口元の笑みを消さないまま死人の顔色をしている父に目を落とす。

「最期まで何も知らないままじゃ父さんが可愛そうだからね。教えてあげるよ。あなたは僕の父親じゃない。僕は母さんと本波医師の子供なんだ。疑うならDNA鑑定の結果を見せようか」

 雅彦がそう告げると病室内はざわついた。集まっていた親戚達は呆然としている者、雅彦の母を問い質す者、ヒソヒソと話をしている者と、反応は様々である。この波紋こそ雅彦が求めていたものであった。

 本波は雅彦の父の友人であり、雅彦の母の不倫相手であった。自分が父の子ではないと幼少の頃に偶然知った雅彦は母を憎み、そして実の子でもないのに自由を奪う父を恨んだ。雅彦は父か母のどちらかが危篤に陥った時、親族の前で真実を暴いてやろうと心に決めていたのである。

 雅彦の思惑通り、病室は騒然となった。復讐を果たした雅彦は愉悦に浸っていたが父が唇を動かしていることに気がついたので顔を寄せた。

「恨み言なら僕が母さんに聞かせるよ。何だい、父さん?」

 死に行く者へ、雅彦はせめてもの情けを見せた。だが父は、雅彦が思いも寄らぬことを口走ったのである。

「……えっ?」

 雅彦が呆然と呟いた刹那、心拍が停止したことを示す機械音が鳴り響いた。枕元に立っていた雅彦は強引に体を退けられ、目前では心臓マッサージが開始される。病室ではまだ騒ぎが続いており、外部から現れた看護師達も加わって病院関係者が事態を収拾しようと声を荒げていた。

(知っていた、だって……?)

 喧騒から取り残された雅彦は復讐が復讐でなくなってしまった義父の言葉を繰り返し、ただ呆然と佇んでいた。





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