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戻り道

 父方の祖父が入院したという報せを受けて、私は久しぶりに実家へ帰った。祖父は過去に心臓を悪くしていて、私が物心ついた頃にはペースメーカーを入れていた。年齢もすでに九十を超えているので、入院したと聞いた時はもう駄目かもしれないと思ったものだが命に別状はないらしい。ただ足腰が弱っていて、寝たきりに近い状態になってしまったらしかった。
 老人ばかりが入院している病棟ではアルコールのにおいが強烈に漂っていた。私も病院に勤める身だが、これほどまでのアルコール臭は職場にもない。病棟勤務ではないから知らないだけでうちの病院も同じなのかもしれないが、おそらくは寝たきりの者が多いせいだろう。一人ではトイレに行くことも出来ない、久しぶりに会った祖父もそういう状態だった。
「おじいちゃん、お姉ちゃんが来てくれたのよ。わかる?」
 祖父の枕元で祖母が話しかけている。お姉ちゃんは私のことだ。長女なので、昔からそう呼ばれている。
 祖母の呼びかけに応えた祖父が私を見てにっこりと笑った。痴呆が進んでいて祖母や母親のことも分からなくなっているらしいので私のことを覚えていてくれているのかは、分からない。祖母が何を話しかけても、祖父は笑顔で「はい、はい」と繰り返していた。会話が成立しないことにうんざりしているのか、祖母は母親を相手に愚痴り出す。この祖母が誰彼構わず愚痴を言うのはいつものことなので、私は愛想笑いを浮かべている母親を一瞥してからベッドの上の祖父に視線を移した。
 祖父の頭は、こんなにも白かっただろうか。私の記憶の中の彼は、いつも毛糸の帽子を被っているので分からない。だけどきっと、私が物心ついた頃にはもう白かったのだろう。近くにいながら私が見ていなかっただけだ。
 父方の祖父母は私の実家の隣に住んでいる。元々は祖父母の家で両親共々暮らしていたらしいのだが、たまたま隣が空いたので引っ越したのだそうだ。その頃には私は生まれていたらしいのだが、そんなことは覚えていない。
 祖父は開いているのか開いていないのか分からない目で、私を見て微笑んでいる。昔から穏やかに笑う人だったが、今の笑顔は私の記憶より幼い。寝たきりで、自分の体も満足に動かせないのに、それでも祖父は幸せそうに見えた。
 こういう時は例え私が誰だか分からなくても、手を握って話しかけてあげればいいのだろう。だけど私にはそれが出来ない。赤ちゃんのように微笑む祖父に向かって何を話しかければいいのかも、分からなかった。






 久しぶりに実家の空気に触れながら眠りにつこうとして、私は昔からよく聞かされていた話を思い出していた。まだペースメーカーを入れる前、祖父はよく私を連れて公園に行っていたというのだ。何歳頃の話なのかは知らないが、私はよく覚えていない。しかし私がおじいちゃんおばあちゃんっこだったのは確かで、子供の頃はただ優しい祖父母が好きだった。その優しさが鬱陶しくなってしまったのは、いつからだろう。
 私が小学生くらいの頃、祖父母はよく食べ物を買い与えてくれた。共働きの両親とファーストフード店に行った記憶はないが、祖父母と行った記憶は残っている。そこで食べたハンバーガーが美味しくて、私は大喜びした。私が喜んだことが嬉しかったのか、それから祖父は散歩に出るたびにそのハンバーガーを買ってくるようになったのだ。だけど店内で出来立てを食べるのとは違い、時間の経ったハンバーガーは不味い。しかも同じハンバーガーばかりを買ってくるので、いつしか美味しいと思った味も苦痛になっていた。
 当時も何となく分かってはいたのだが、今になってしみじみと思う。あれは、祖父なりの愛情表現だった。隣に住んでいても会話を交わした記憶はあまりなく、買ってきた物を渡しに来てくれる時が最大の接点だった気がする。だからなのか、祖父は母親に食べ物を与えるなと怒られてもこっそりと買いに行っては私のところへ持って来てくれたものだ。頼みもしないのに。
 祖父が不味いハンバーガーを持って来てくれることが、いつしか苦痛に変わっていた。だけど嬉しそうに顔を出す祖父に「いらない」と言うことも出来ず、せっかく買ってきてもらった物を捨てることも出来なかった。無理をしながらハンバーガーを食べ続けるうちに、祖父の存在自体が鬱陶しくなってしまったのだ。そして私は、「いらない」と言えない代わりにキレるようになってしまった。
 距離を保とうにも、隣家に住む肉親という関係はあまりにも近かった。ちょうど思春期だったこともあって、中学時代は思い出したくもない荒れ方をしていた。それは高校に入ってからも同じようなもので、私は心の平静を保つために家を出たのだ。
 一人暮らしをして初めて、鬱積の原因は近すぎる肉親と狭すぎる地域のコミュニティにあったのだと知った。干渉されることが嫌いなのだ。一人にしておいて欲しかった。それは今も変わらないが、他人に干渉しない都会で暮らしているせいか普段は意識することもない。こんなことを考えているのも、実家の空気のせいだろう。
 やはりこの地域の空気は、私には合わない。親族とは特に距離を保つことが必要だ。だから私は祖父の手を握れなかった。近付きすぎるとまた、心の安定が崩されてしまうから。
 たぶん私は、もう祖父の見舞いに行くこともないだろう。だが祖父が嫌いなわけではない。祖父が亡くなってから自分の行動を後悔するかもしれないという漠然とした予感もある。祖父が死ぬかもしれないと思うと涙が出るからだ。でもこの涙は、老いを目の当たりにした物悲しさのせいかもしれない。私の記憶にある祖父は、散歩が唯一の楽しみだった人だから。
 散歩以外することのなかった祖父にとって、ちょっと出かけて孫にオヤツを買ってくることは生きがいだったのかもしれない。今はそれが分かるだけに、突き放したことに心が痛む。傷つけたくなくて「いらない」と言えなかったはずなのに、態度で迷惑だと分かってもらおうとしてもっと祖父を傷つけた。キレることは浅はかな、子供の考えだったのだ。
 今なら「いらない」と伝えることも出来るけど、もう遅い。せめて祖父が幸せそうに笑っていてくれて、本当に良かった。
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