納豆巻き

 道端に落ちていた、一本の納豆巻き。販売されていた時の姿のまま放置されているそれを二人の男が見つけた刹那、戦闘が始まった。




 伸ばした腕を止め、久保三郎は目を上げた。同じ動作をしていた池内大介もまた、隣から伸びてきた腕の持ち主を見る。

「……譲ってくれよ、育ち盛りなんだ」

 大介から口火を切った。彼はもう、三日ほどまともな食事にありついていない。

「小僧が。こういうことは年寄りに譲るもんだろ」

 三郎も負けじと言い返す。彼もまた、三日ほど食事にありつけていなかった。

「あっ!!」

 突然、大介が叫びながらあらぬ方角を指差す。しかしそんな子供だましに引っかかるほど、三郎は愚かではなかった。

「あっ!!」

 納豆巻きを拾い上げた三郎を指差し、大介が叫ぶ。その瞳には驚愕と怒りが煮えたぎっていた。

「悪く思うな、じゃあな」

 久方ぶりに気障を気取って、三郎は背を向ける。しかしその背後から大介の手が伸びてきた。

「なにカッコつけてやがる! よこせ!!」

「年寄りになにしやがる!!」

 労わりのカケラもない大介の顔面に、三郎は肘鉄を打ち込んだ。鼻血を垂れ流しながら、大介も三郎の頭をわしづかみにする。

 三郎がかぶっていた毛糸の帽子が地に落ちた。かろうじて残っていた髪の毛が数本、同時に抜け落ちる。

「やったな!!」

 激昂した三郎は大介の頭に手をかけた。同じことをしてやると豊かな黒髪が束になって抜けた。

「いてえ!! このジジイ!」

 涙を浮かべながら大介が蹴りを繰り出す。中段の回し蹴りは見事脇腹に命中し、三郎はあまりの痛みに手にしていた納豆巻きを放してしまった。空中に舞ったそれを優雅に掴み取り、大介は鼻血を拭う。

「餓死なんかしてたまるか。オッサンこそ悪く思うなよ」

 地面に這いつくばり、三郎は大介の声を聞いていた。意識を失いそうになる体に届いたのは、潮騒。

 若い頃、海は三郎の居場所だった。だが年々漁獲高は減り、漁だけで生計を立てていくことは難しくなってきた。一攫千金を夢見て、三郎は上京してきたのだ。

(海の男が都会育ちの小僧に負けてたまるか!)

 忘れかけていた情熱が胸を熱くさせ、三郎は立ち上がった。手のひらで納豆巻きを転がしながら去って行こうとしている大介の背中へ腕を伸ばす。

「ぐっ、」

 三郎のヘッドロックにより大介が呻いた。荒波に鍛えられた腕が容赦なく顎を締め上げる。

「小僧、納豆巻きを手放せ」

 耳元での声にもかかわらず呟きは遠く、大介は意識を失いかけた。だが刹那、大介の脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。

 借金を苦に両親が夜逃げしてしまってから、大介の孤独な闘いは始まった。高校一年にして公園での生活を余儀なくされ、風呂にもろくに入れない日々を送ることになった。それでも、引かないでいてくれた天使のような心を持つ少女。

 生きて冬を乗り越えることが出来たら告白しようと、思っていた。彼女への想いだけが薄れゆく意識を現実に引き戻し、大介は拳を握って全身に力を入れ直し前傾姿勢になることで三郎を背負った。

 三郎の体が、地面に叩きつけられる。しかし白目を剥いてしまったのは大介も同じことだった。




 先に意識を回復したのは三郎の方で、横たわっている大介を一瞥する。その手には納豆巻きがしっかり握られていた。

「……小僧、起きろ」

 三郎が揺さぶって大介も意識を取り戻す。荒く呼吸をしながら、大介は己の手元に視線を落とした。

「……潰れちまった」

「もう、いい。それはお前のものだ」

 同じ男として、お互いに譲れないものがある。何を語った訳ではなくとも、三郎はそう感じ取っていた。

 だがそれは大介も同じで、去って行こうとする三郎に声をかけた。

「待てよ、半分やるから」

「……いいのか?」

 答えず、大介は無言で包装を破った。引き出した海苔をぺしゃんこになってしまった米に巻く。

「……最初からこうすれば良かったんだな」

「……そうだな」

 余計な体力を使ったことをお互いに後悔しつつ、大介と三郎は納豆巻きを頬張った。吐き出す息が白い冬、それは今まで食べたどの納豆巻きより美味いものだったという。





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