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● 桜色恋歌  ●

 井の頭公園の桜が今年も満開の季節を迎えて、きれいに咲いていた。この公園の桜は見上げれば青空に、視線を落とせば水面に映える。池にボートを浮かべて眺めると、まるで別世界にいるような気持ちになれることを、わたしは知っていた。

 池の畔に植えられている桜の下には、地面が見えないほど隙間なくブルーシートが広げられている。昼間の桜を楽しんでいる人、夜の宴会のために一人で場所取りをしている人、春の陽気の中をのんびりと歩きながら桜を愛でている人、近所に住んでいて通行のためだけに公園内を歩いている人。この季節の井の頭公園は色々な人で溢れている。七年前と変わらない風景の中を、わたしは七年前に隣を歩いていた人と歩を進めていた。

 高校二年生だった七年前の春、わたしは隣を歩いている彼と初めて二人きりで出掛けた。ちょっと遠出をして桜を見に来たこの公園は、わたし達にとって初デートの場所なのだ。桜の時期にこの場所へ来ると、一歩先を歩いている彼に学生服を着ていた頃の彼が重なって見える。あの頃は手をつないだだけでドキドキして、お互いにうまく喋れなかったね。もう七年も前のことだけど、胸を焦がしたときめきは今でも覚えているよ。

 池の畔をお互いに無言のまま歩いていたら、頭上で桜が騒ぎ出した。スカートの裾をはためかせる春風が桜にも吹きつけて、薄紅色の花弁が空に舞う。桜吹雪の中で振り返った彼の髪も、春風に揺れていた。

『きれいだね』

 七年前、彼は舞い落ちる花びらを見てそう呟いた。だけど今日は、彼の視線は桜ではなくわたしに向けられている。彼の口元が微かに動いたけれど、その声は春風にかき消されてわたしには届かなかった。けれど聞き返すことはせずに、頷いて見せる。彼は言葉を次ぐこともなく、わたしを待たずに歩き出した。

 桜吹雪の向こう側に彼の姿が消えて行く。声が届かなかったのに彼の口唇が何を告げたのか理解してしまったのは、きっとわたしも同じことを考えていたから。彼が口にしたであろう「さよなら」を、わたしも小声で呟いてみた。

 高校二年生に進級する春、一年生の時に同じクラスだった彼に告白したのはわたしの方だった。初めて恋をして、夢中になって、一日でも会えない日があると恋しくてたまらなかった。今思えば、あの頃は何もかもが輝いていたね。

 高校を卒業すると、わたし達は別々の大学に進学した。学校は違ってもお互いにキャンパスが都内にあったから、二人で過ごす時間は高校生の時とそれほど変わらなかった。転機が訪れたのは大学二年生の時で、彼の通う校舎が都内から神奈川県に移ってしまう時に思い切って同棲を始めた。希望に満ち溢れていた、二人の生活。けれどわたし達の楽しかった時間は、ここで一度終わる。

 それまではあまりケンカしたこともなかったのに、同棲を始めてからは些細なことから言い合いになることが多くなった。離れていた時は恋しくて仕方なかったのに、近すぎるとお互いの嫌な面が見えすぎてしまう。それはきっと、生活を共にするにはわたし達が幼すぎたからだろう。今なら、そう思える。

 共同生活が無理だということを身を持って知ったわたし達は、一年も経つと別々の道を歩み始めた。でも、同棲は解消したけれど別れたわけではなくて、わたし達の関係は大学を卒業してからも続いていた。長く付き合っていたからお互いのことをよく知っていたし、何より彼以上の相手なんていなかったから。彼もたぶん、同じだったのだと思う。

 会えなくて苦しい思いをした十代の頃のときめきは、いつの間にか完全になくなってしまっていた。けれど、その代わりに生まれた安定感から離れられなくて、わたし達はお互いに他の恋人を見つけようとしなかったのだと思う。わたしは今でも、彼のことが好きだ。でも一緒に暮らせないことをすでに知ってしまっているわたし達に、未来はない。

 わたしもあなたも、お互いに甘えすぎてわがままだったね。次の恋が芽吹く時が来たら、そのときは厳しい寒さに耐えて美しく花開く桜のように、忍ぶことを覚えよう。

 花の香りを乗せて吹き抜ける春風が、井の頭公園の桜を優しく散らしている。春爛漫の花吹雪の中を、わたしも一人で歩き出した。





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