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● 空飴 --- 〜それは紙一重の小さな幸運〜 ●

 空に向かって欠伸をしたら、何かが口の中に入った。飴のような塊を勢いで飲み込んでしまってから、咳き込む。

(うわっ、飲んじゃった……)

 無味無臭、口内に違和感は残っていない。それでも、気分はやはり気持ち悪かった。

 睨むように天を見上げても頭上には何もない。そうなると余計に何が降ってきたのか分からなかった。

(……最悪)

 悪態をつきながら再び歩き出そうとして、足を止める。目の前に小さな紙切れが舞っていた。

 ひらひらと足元に落下した紙を、手にしてみる。飴の包み紙くらいの大きさで、広げてみると文字が書いてあった。


『Congratulations! You are lucky!』


(……なんで英語?)

 不可解と不愉快に、渚は眉をひそめた。




 家に帰って真っ先にうがいをした。けれど硬質な何かを飲み込んでしまった感触は消えず、鏡に映ったしかめっ面を眺める。

「渚? 帰ったの?」

 母親の声に口元をタオルで拭い、渚はリビングへ移動した。

「なんか嬉しそうだね」

 言うと、母親は途端に表情を硬くした。

「ちょっとそこに座りなさい」

 真顔で言われ、内心首を傾げながらイスに腰を下ろす。母親は戸棚から何かを取り出して大切そうに握り締めながら正面に座った。

「何それ」

「宝くじよ」

「ふうん。当たったの?」

 母親の趣味は毎週欠かさず買っている宝くじ。はまりだしてから三年ほどになるが今まで当たった例がなかった。

 だが母親は神妙な表情のまま頷いた。

「良かったじゃん。いくら当たったの?」

「百万よ、百万」

 思わぬ高額当選に目を見開く。母親は険しい表情を崩さないまま声を潜めた。

「それで、今から銀行に行ってくるから。このことは絶対誰にも言っちゃダメよ」

「……何で?」

「どこで誰が聞いてるか分からないじゃない。お母さん刺されたくないわ」

「サスペンスの見すぎだよ」

 呆れながら渚は言った。

 実際に手にする金額としては高額だが宝くじの配当金から見ればさほど高い訳でもない。だが母親は不安らしかった。

「とにかく、誰にも喋っちゃダメよ」

 そわそわしたまま封筒を握り締め、母親は立ち上がる。まだ家の中だというのに周囲を窺いながら姿を消す様を見て渚は思った。

(あれじゃ何かあるって言ってるようなもんじゃん)

 けれど、もしかしたら好きな物を買ってもらえるかもしれない。そう考えると悪いことではないような気がした。

(おめでとう、ね……)

 妙な紙切れは捨ててしまった。まさかと思いながら、渚は首を振る。

 だがその夜、帰宅した銀行員の父親が支店長になったと大喜びで母親と抱き合っている姿を目撃してしまった。






 それから、めでたい出来事が続いた。嫁いでからずっと不妊治療を続けてきた姉に子供が出来たり、親友がずっと想ってきた人と結ばれたのをかわきりにカップルが増えたり。

 けれど渚自身には小さな幸運も訪れなかった。どちらかと言えば小さな不運ばかりが続いている。

「渚、どうしたの?」

 幸せ顔の親友に、渚は腰を押さえたまま答えた。

「バナナの皮で滑って転んだ」

「……ギャグ?」

「ギャグのようなホントの話よ!」

 朝、家を出た途端惨事は襲ってきた。偶然あんな所にバナナの皮があるはずがないのできっと近所の悪ガキの仕業だ。

「最近、不幸だね」

 同情まじりながら親友の表情は明るい。もう、ノロケ話をしたくてうずうずしている顔だった。

「はいはい。彼がどうしたって?」

 仕方なく渚から切り出すと親友は満面に笑みを浮かべて自慢の彼のカッコ良さを力説した。




 あの妙な紙切れが降ってきた日から、周囲の人が幸福になる度に不運が訪れる。幾度目かの経験で、渚は悟っていた。

(何がユーアーラッキーよ! ちっともめでたくないじゃない!)

 ざーざー降りの雨の中、渚は悪態をつきながら帰路を急いでいた。しかしつい先刻友人に幸せがあったばかりで、案の定不幸は訪れた。

 確かに、ずっと風は強かった。だが想像を絶する突風が吹きつけて傘が逆さに花開いてしまった。ついでにスカートがものすごい勢いでめくれてしまい、傘を手放して慌てて押さえる。

 スカートはなんとか原型を留めたが、土砂降りの雨が襲ってきた。みすぼらしく濡れながら渚は飛ばされた傘の行方を追う。直後、傍を通った車に泥水を浴びせられた。

「…………」

 もう、どんな突っ込みも悪態も浮かんではこなかった。ここまでくるとさすがに泣きたくなって、泥水で汚れた顔を拭って家路を急いだ。






 宝くじが当たった日、階段から落ちた。父親が支店長になったと喜んでいた時、お風呂で火傷した。親友が好きな人と気持ちが通じた時はバイクに撥ねられそうになり、それからも友人が誰かと付き合うたびに生傷が絶えなかった。

 あの紙が降ってきてから数日、周囲が幸福になる度に不運が襲ってきた。それなら、自分が幸福になるとどうなるのだろう。

 目の前の光景に、渚は素直に喜べなかった。

「……ダメかな?」

 そう言って哀しそうに笑うのは、ずっと気になっていた男の子。高崎先輩。

 こんな状態じゃなかったらすぐにでも頷きたかった。夢のような現実に、しかし渚は重い口を開く。

「……先輩、聞いてくれますか?」

 あの紙が降ってきてからの悲劇を、渚は語った。

「と、いう訳なんです。だから、今は……」

「そっか。そんなことがあったんだ」

「私も先輩が好きです。でも次はどんな目に遭うかと思うと、怖くて」

 先輩はしばらく考えこむように黙っていたけれど、やがて意を決したように目を上げた。

「大丈夫。僕が守ってあげるから」

 このところずっと不運続きだったので、優しさが身に染みた。まして好きな人に言われた科白では、感激に涙が滲んでくる。

「ありがとうございます。でも……」

「ずっと一緒にいるから。大丈夫」

 頭を撫でられながらのダメ押しに、渚は折れてしまった。






 先輩と付き合いだしてから数日が経過しても、一ヶ月が経っても不運は訪れなかった。最初の頃はビクビクしながらだったが近頃はすっかり安心して、渚は自然に笑った。

「一ヶ月経つけど、何もないね」

「やっぱり偶然だったんですかね」

「幸運と不運は紙一重、ってことかな」

「先輩、笑えません……」

 引きつった笑みを返し、渚はよく晴れた空を仰いだ。

 もしかしたらこの幸福を手に入れるために数々の不運があったのかもしれない。自分が幸運を掴むためには他人に幸せを分けてあげなさい、ということなのだろうか。

 教訓じみた怪談に渚は苦笑した。ただ、もう二度と空に向かって欠伸はしないと思いながら。





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