夜伽草子

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神無月、石蕗


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年。これは人間の男と美しき化生どもの織り成す夜伽の物語である。








 日本全国の神が杵築大社(きつきおおやしろ)に集う神無月のある夜、山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で広廂(ひろげさし)に座り込んでいる青年は屋敷の南に広がる庭を見つめていた。直衣(のうし)立烏帽子(たてえぼし)という出で立ちをしている青年は寝殿の主であり、彼は『若』と呼ばれる存在である。端正な面立ちの若は二十歳前後と思われるが、本当の年齢は当人も知らない。若という呼称も無論親から授かったものではなく、彼は自身の名さえ知らないのであった。

 開放的な屋敷を吹き抜けていく風は冷たく、それはすでに冬のものであった。冷たい月明かりに照らされている南庭も寒々しく色彩を変えている。侘しい眺めの邸宅には鳥や獣さえも訪れることがないため、屋敷は今宵も静謐を保っていた。平素に比べればわずかに憂いを含んだ面持ちで庭に視線を注いでいた若は、不意に出現した女を認識して目を瞬かせる。突如として若の視界に入り込んだ彼女は重みを感じさせぬ足取りで寝殿へと歩み寄り、簀子(すのこ)を伝って若の下にやって来た。

『若、お久しぶりにございます』

 冷気に溶けてしまいそうなほど軽やかな声を発した女は、人型をしているが人間ではない。その証拠に小袿(こうちぎ)を纏い、緋の袴を身につけた女の垂髪(すいはつ)は月の色彩を盗んだような黄色であり、瞳の色は濃緑である。何より、彼女の体は背後にある風景を透かしているのだ。しかし彼女が人間ではないことなど大した問題ではなく、若は知己である女の名を呼んだ。

石蕗(つわぶき)か」

 若が口にした名称の通り、小袿を纏った女は石蕗の化生なのである。石蕗は若に向かってにこりと微笑み、形の良い口唇をわずかに開いた。

『若、お顔の色が優れませんわね。何か憂い事でもございますの?』

 石蕗に的確な指摘をされた若は肝を冷やしたが、表面上は何事もないよう装いながら首を振る。

「少し、気分が優れないのだ。夜風が障ったのかもしれない」

『まあ、それは大変ですわ。若、今すぐお休みになってくださいまし』

 歩く仕種をしながらも地に足を着いていなかった石蕗はふわりと空中を舞い、若を導くように寝殿へと泳ぎ出した。石蕗に誘われるまま、若は寝殿に戻って烏帽子を外す。彼は直衣のままで夜具に横たわろうとしたのだが、石蕗が制止するように声を上げた。

『若、受肉の許可をいただけませんか?』

 石蕗が伺いを立てた受肉とは、触れることの叶わぬものから触れることが出来るものとなるよう肉体を得ることである。若が申し出を受け入れるとすぐ、石蕗の化生は畳へと降り立った。そうすることで石蕗の体は足元からゆっくりと、背後の風景を通さないものへと変わっていく。受肉を終えた石蕗は甲斐甲斐しく若の衣を剥ぎ取っていった。

「さあ、若。これでお休みになれますでしょう?」

 石蕗は爛漫に笑ったが肌衣のみとなった若は身に染みる寒さを感じていた。とっさの嘘が真になりそうだと内心で苦笑しながら、若は床に就く。石蕗は若の枕元に腰を落ち着けた。

「今宵は大陸のお話でもいたしましょうか」

 石蕗がさっそく夜伽話を始めようとしたので若は静かな口調で彼女の言葉を遮った。

「大陸の話よりも都のことが聞きたい。頼めるか?」

 若は確かに、最近まで大陸の話ばかりをせがんでいた。しかし今、彼が知らなければならないのは遠い大陸のことよりも都のことなのである。若がそう考えるに至ったのにはある事情があったのだが、そのことを知らない石蕗は目を瞬かせた。

「都のお話、でございますか。若は大陸に興味がお有りなのかと思っていました」

「大陸にも興味がある。しかし私は、自身が暮らす国のことについてあまりにも無知なのだ」

「……左様でございますか。若がそう仰るのであれば、都のお話にいたしましょう」

 石蕗は若の変心に些かの不審を感じたようであったが、そのことを改めて口にするようなことはしなかった。気分を変えるように表情を改めた石蕗は咲き誇る花の如き色香を漂わせながら横たわる若に美しい面を寄せる。

「若は都の、どのようなことがお知りになりたいのです?」

 触れるだけの口づけの後、石蕗が囁くように問いかけてきた。若は女の気配を間近に感じながらも天井に視線を固定したまま淡々と応じる。

「都は、何故都なのだ?」

 若は様々な化生から華やかな都の話を聞いたことがあった。だが化生が語るのは都の佇まいや、その場所に暮らす人々のことである。都は何故、山城盆地に栄えているのか。そもそも都とは何なのか。そういった根本的な疑問を抱く若に答えをくれた者は今まで唯の一人もいなかったのである。若の疑問を受けた石蕗も姿勢を正して考えこんでいたが、彼女はやがて口火を切った。

「都とは皇居のある土地のことです。人間の支配者がいる場所と思えばよろしいのではないでしょうか」

「人間の支配者……天皇という存在か」

「そうですわ」

「では何故、都は山城にあるのだ?」

「それは、遷都したからですわ」

「せんと、とは?」

「都を移すことです。山城に移る以前の都は長岡に、長岡より以前には大和にありました」

「都とは移るものであったか」

「……どうやら、若がお知りになりたいのは都というよりもこの国の歴史のようですわね」

 石蕗が呆れたように呟いたので話にのめりこんでいた若は我に返った。若は床上から、見下ろしてくる石蕗の瞳をじっと見つめる。

「聞かせてもらえるか? この国の歴史を」

 石蕗はやや興醒め気味であったが、若が念を押すと簡単に頷いた。ただし簡略であることを前もって言い置き、石蕗は話を始める。

「人間は初め、石器を使って狩りをするという生活をしていたようです。そのうちに定住を始め、大陸から稲作が伝わると米を作り始めたのですわ。狩りをしていた頃は家族単位の小集団でしたが、稲作を始めてからは大きな集団になり、集落というものが生まれたのだそうです」

 集落同士はやがて互いの利権を賭けて争うようになった。これが小国が生まれた起源である。集落の統合によって生まれた小国は各地に分立し、今度は小国同士が争うようになった。二世紀の終わりごろ小国同士の争いが激化して世が大変乱れたため、各国は共同で邪馬台国の卑弥呼を王として立てた。ここに邪馬台国を中心とする連合が生まれ、その後に大和の勢力を中心とするヤマト政権が成立するのである。大王(おおおみ)を中心とするヤマト政権は徐々に支配体制を整えていったが五世紀の初めに王統の断絶という危機を迎え、応神(おうじん)天皇の五世孫と称する者を継体(けいたい)天皇として即位させた。

 継体天皇の死後、政権は分裂した。これの収拾にあたった蘇我氏が台頭し、時代は厩戸皇子うまやとのおうじ(聖徳太子)が活躍する推古(すいこ)朝へと移って行くのである。その後は大化の改新を経て律令国家の形成に向かい、持統(じとう)天皇の治世中に藤原京へ遷都した。律令法によって定められた位階のうち五位以上の官人とその家族が貴族と呼ばれる者達である。

 八世紀の初め、藤原京から平城京へ遷都。時の天皇が藤原不比等(ふひと)を重用したため、彼の子孫達によって藤原氏が栄華を極めていくのである。しかしその道のりは初めから順風満帆であったわけではなく、飢饉や疫病が続いたことで社会に不安が広がっていった。不比等の子達が流行り病で相次いで死去したため藤原氏は一時期衰退していたが、式家(しきけ)(不比等の三男である藤原宇合(うまかい)を祖とする家系)の百川(ももかわ)桓武(かんむ)天皇を擁立したことにより息を吹き返す。桓武天皇は初め長岡京へ遷都したが不幸が相次いだため、山城国に新都を造営した。これが平安京であり、平安京への遷都から約四百年間を平安時代と呼ぶのである。

「山城へ遷都して後のことは、よく存じています。ですが少々、長話が過ぎるようですわね。今宵はこれまでにいたしましょう」

 石蕗が話を切り上げたので若は考えを巡らせながら頷いた。石蕗が語った内容は若にとっては初めて耳にするものばかりであり、彼は頭を整理する時間が欲しいと思ったのである。しかし若の思考は、石蕗の冷たい口づけによって阻まれてしまった。

「わたくし、若の臓腑をいただきたいですわ」

 愛を囁くように甘く、石蕗が欲望を露わにする。胸板を伝う爪の硬質さを感じた若はひやりとした。

「石蕗、先程も申したが体が思わしくないのだ。今宵は我慢をしてくれぬだろうか」

「そのようなことを仰られて……若はわたくし以外の輩に臓腑をお与えになるのではありませんこと?」

 あまり顧みられないことを拗ねているように、石蕗は甘える子供のような口調で食い下がる。すでに他の化生に臓腑を与えている若には、この石蕗の一言に返す言葉が見当たらなかった。若が為す術なく閉口すると、石蕗は彼の顔を覗き込んで微笑みを浮かべる。

「まあ、よろしいですわ。その代わり精気をくださいませ」

 困惑顔は甘美な誘いであると独白を零し、石蕗は若に口唇を寄せる。石蕗に口唇を奪われた若は気力と体力を少しずつ彼女に吸い取られ、力なく瞼を下ろしたのだった。








 夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。






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