夜伽草子

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如月、桜


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年。これは人間の男と美しき化生どもの織り成す夜伽の物語である。








 山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で、寝殿の主である青年は釣灯籠の下に座りこみ、やり水の傍に植えられた桜を眺めていた。立烏帽子(たてえぼし)を外した直衣(のうし)という出で立ちで月明かりに照らされている彼は『若』と呼ばれる存在である。若は己の真の名を知らず、また知る必要も、彼にはなかった。

「……桜」

 鳥獣の気配さえ届かない山奥の静謐を破り、若が小さな声で呟きを零した。形の良い彼の口唇から紡がれた言葉は呼びかけるものであり、その呼びかけに呼応するかのように満開の桜の古木が淡い光を帯び始める。ゆらゆらと昇る光はやがて幹から分離して人型を成し、背後に月を映しながら桜色の女が夜に姿を現した。

 若の前に現れた美麗な衣をまとった女は足先をゆうに越える長い髪と、長く伸びた爪を有していた。黄緑の瞳は月光に晒されて怪しい輝きを放っており、白に近い淡紅色をしている彼女の髪は重力に従うことなくふわふわと辺りを漂っている。到底人間とは思えぬ容貌をしている女は桜の化生であり、名をそのまま『桜』といった。彼女の名が安直なのは若が便宜上与えたものだからであり、元来化生には名など何の意味も成さない。

『若、お久しゅう』

 淡紅色をしている髪や爪よりも濃い桃色の口唇が、冷ややかに空気を震わせた。底知れぬ冷たさを内在させながら微笑んでいる桜は一瞥するに留め、若は月明かりに照らされている古木へと視線を傾ける。咲き誇った桜は早くも散り急いでおり、白銀の花弁を夜に舞わせていた。

「そなたと共にする(とき)は、いつも短いものだ」

『いつまでも咲いていれば良いというものではございませんわ。引き際をわきまえていらっしゃらない方がお傍においででは、若もお心が休まらないでしょう』

 桜が口にしたことは、つい先日まで若の傍にいた梅の化生に対する皮肉であった。一部の例外を除けば化生どもは我が強く、己を至高の存在だと信じて疑わない。桜の侮蔑もまた、己の取り分が減ることを危惧しているからだと若は理解していた。そして確かに、先日まで傍にいた梅の化生のせいで若は消耗されている(・・・・・・・)のだ。

『ときに、若。受肉してもよろしいですか?』

 桜がさっそく伺いを立てたので若は無言で頷いた。若の意を受けた桜は広廂(ひろげさし)まで上がってから床に足をつく。そうすることで彼女の体は足元から、背後の景色を通さなくなっていった。

 受肉とは、触れることの叶わぬものから触れることが出来るものとなるよう肉体を得ることである。だが受肉をしても風貌はあまり変わらず、彼女が化生であることにも変わりはなかった。

「若、こちらへ」

 桜に畳の上へと誘われた若は、その場で小さく首を振って見せた。

「そなたの姿を見ていたい。今宵は高欄(こうらん)の傍で話を聞かせてくれ」

「左様でございますか。それでは、わたくしがそちらへ参ります」

 すんなりと申し出を受け入れた桜は寝屋で触れ合うことにはさほど興味を示さない性分であり、若にとってみれば幾分、負担の少ない相手であった。広廂(ひろげさし)より一段低くなっている簀子(すのこ)にまで下りた桜は高欄に指をかけ、月が浮かんでいる天空を仰ぐ。桜の細い指から顔へ視線を上げた若はふと、彼女の出で立ちに興味を覚えた。

「桜、そなたの衣は麗容であるな」

「まあ、光栄ですわ。この衣は十二単なる装束を模したものでございます」

「人間の女子(おなご)が着用するものなのか?」

「内裏に仕える高貴な女子の装束ですわ。天皇に伺候する時には必ず着用するのだとか」

「天皇とは国を治める者、であったな」

「今宵は都のお話になさいますか、若?」

 桜に問われた若は微かに頬をすぎる風に舞う花弁に心を奪われながら思案した。月明かりの下で花びらを散らせている古木はその周囲までもを幻想色に染め上げ、幽玄の美を作り出している。散りゆく様がこれほど美しい花は他になく、桜の化生と過ごす刹那の儚さに思いを馳せた若は彼女自身の話題に言及することにした。

「桜、そなたはどれほどの刻を生きてきたのだ?」

「わたくしは二百年ほどになりましょうか。木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)が富士の山頂から種を蒔かれた時より数えれば、まだまだ若輩者ですわ」

 木之花咲耶姫という名称を若はこのとき初めて耳にしたのだが、神霊の類であろうということは容易に想像することが出来た。その名の雅なことから美しい女人を思い描いた若は木之花咲耶姫についての問いを重ねる。

「咲耶姫は、現在は何処(いずこ)に居られるのだ?」

 若の発言はお目にかかれることを期待してのものではなかったのだが、桜は冷然と嘲るように口唇を引く。

「存じませぬ。興味もありませぬゆえ」

 木之花咲耶姫は言わば、桜にとっては母神ともいうべき存在である。そのような人物を興味がないと一蹴してみせた桜の言葉は難解で、若は少し眉根を寄せた。嘲りを消し去った桜は柔和なまなざしを若へ向け、そのまま諭すように言葉を重ねる。

「若にはお解かりにならないかもしれませんが人間も神も化生も、様々なのでございます」

 この邸宅から一歩を踏み出すことさえままならない若にとって、桜の言葉は理解しようとすることさえ放棄せざるを得ないような代物だった。桜も別段若に理解を求めているわけではく、それ以上の説明を加えようとする気配はない。知らないのであればどうすることもないと思い直した若は桜から視線を外し、彼女を白銀に染めている冷たい月を仰いだ。

「若は月がお好きなのでございますか?」

「なにゆえ、そう思う?」

「先程から桜よりも月をご覧になっておいでです」

「そなたを美しく染め上げる光を、私も浴びていたいのだ」

 桜の真意を察した若は不満を和らげるための言葉を素早く返し、それから桜色の化生へと視線を傾けた。若の漆黒の瞳に映し出された桜は、それと分からぬほどわずかに頬を朱に染め、桃色の口唇を笑みの形に歪める。

「それでは、若。このような歌はいかがでしょう」




 (ひむがし)の 野に(かぎろひ)の 立つ見えて

 かへり見すれば 月(かたぶ)きぬ




 歌を読む桜の滑らかな声が途絶えたところで、若は思わず東の空を仰ぎ見た。しかし月はまだ中天にあり、朝の光も射してはいない。

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の句でございます。万葉集に綴られておりますわ」

 そ知らぬ顔で注釈をする桜に気取られぬよう、若は密かに息を零した。しかしそれは嘆息ではなく、桜の求めに応じた若は彼女の細い腕を掴み、そのまま肩を引き寄せる。

「柿本人麻呂とは、どのような人物なのだ?」

 桜を抱き寄せた瞬間からその香りに酔ってしまった若は瞼を下ろし、うわ言を言うように問いかけを口にした。彼の腕に抱きすくめられている桜は嬉しそうな笑みを零しながら若の問いに応じる。

持統(じとう)文武(もんむ)天皇に仕えた宮廷歌人でございます。天皇を讃える歌や、自然の雄大さを詠んだ歌が万葉集に収められておりますわ」

 持統・文武天皇というのがどのような人物で、彼らが治めた時代がどのようなものであったのか、若は知らない。むろん興味はあったのだが桜がすでに血を啜ることに没頭してしまっていたため、若は問うことを諦めた。

 化生は、太陽が昇ればその姿を維持していることが出来ない。桜は柿本人麻呂の歌を使って、月が傾く前に贄としての勤めを果たすよう若を促したのである。どれほど雅なことを口にしても、化生は化生でしかない。そう思うと同時に直接求めることをせずに歌で誘うという桜の趣向に、若は歓心していた。

「わたくしを、若の血で美しく染めてくださいませ」

 甘美な糧に酔っている桜は恍惚の世界にいる。しかしその科白もまた、月の話をした時に若が躱した言葉に対する返歌のようであった。風情というものを理解している化生に若もまた酔っており、彼は桜がよく血を啜れるよう、華奢な肉体を抱く腕に力をこめる。

「桜、そなたは臓腑を欲しないのか?」

 化生の好物は人間の生き血であり、(はらわた)である。だが桜からは腸を欲しいと言われたことは一度もなかった。梅の化生が聞いたら激怒しそうなことではあったが若はだからこそ、彼女になら自ら奉じてもいいという気になっていたのだ。しかし桜は、吸い上げた血によってほんのりと色づいた面を厭そうに歪める。

「腸は嫌いですわ。臭いのですもの」

 化生にも好みというものがあることを知り、若は少しおかしくなった。桜は真紅に染まった口唇を歪めたまま、さも悍ましそうに話を続ける。

「あのような物を好む方の気が知れませんわ。若、下賤の者の要望をあまり聞き入れられるものではありません」

 桜の痛烈な皮肉は先日まで若の血肉を貪っていた梅の化生だけに向けられたものではないようだった。その理由に思い当たり、若はなるほどと胸中で呟く。臓物を一つ失うということは、若が一つ人間ではないものに近付くということである。そして若が人間でなくなってしまえばこの甘美な時間も失われ、血のみを欲する桜にとっては損失以外の何物でもないのだ。

人間(ヒト)も神も化生も様々、ということなのだな)

 量らずも桜の意見を理解するに至った若は血の気の失われた口唇で笑みを形作り、再び彼女の体を引き寄せた。

「私が人間である限り、そなたを美しく染めてみせよう。あの月のように」

「光栄ですわ、若」

 氷のように冷たい口づけも桜にとっては愛おしく感じられるもので、また若にとっても己の血が染みた口唇を食むことは不快ではなかった。やり水の傍に植えられた桜の古木はその夜、贄の血液を吸い上げて見事な淡紅色に染まったという。








 夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。






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