時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。
山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で寝殿の主である青年は
『若』
何を考えるでもなくぼんやりと水面を見つめていた若は、日中には決して聞くはずのない声を耳にして驚きながら面を上げた。しかし空を仰いだ彼の漆黒の瞳に映ったものは青い空だけであり、他には何もない。
『若、こちらです』
若が困惑していると、先程の声が再び聞こえてきた。それは随分と間近にいる者が発したような大きさの声であり、若は目を凝らしてみる。すると彼の瞳は、今にも陽の光に紛れてしまいそうな淡い姿を映し出した。背後の風景を透かし、空の色彩に溶けてしまいそうになりながら空中を漂っていたのは下げ髪の童である。彼女がおかっぱ頭をしていながら唐衣を纏っていたので、その不揃いさに若は眉根を寄せてしまった。
「そなたは何者だ?」
若の発した問いに童は子供らしからぬ優美な笑みを浮かべて応える。
『初めてお目にかかります。私は朝顔と申す者です』
「あさがお?」
初めて聞く名に若が首を傾げていると朝顔は宙を泳ぎ、釣殿の先端を指した。その場所では床を支える柱に蔓を巻きつけた植物が、円錐形に大きく花を開いている。真昼の空と同じ色彩をしている花を見て、若は驚いた声を上げた。
「では、そなたは化生なのか?」
朝顔と名乗った童は驚きを露わにした若に微笑んで見せ、肯定の意を示した。通常、化生は太陽の下に姿を現すことが出来ない。だが朝顔は夜には花を閉ざしてしまうため、昼にしか姿を現すことが出来ないのだと語った。
『時に若、何をなさっていたのです?』
若の傍を離れて宙に舞った朝顔の化生は、彼が手にしている竹竿に顔を寄せながら疑問を口にした。昼間に化生と言葉を交わしていることに若干の違和感を残しながら、若も己が手にしている竿へと視線を転じる。化生の棲む邸宅には鳥も虫も寄り付かず、無論池にも生物はいない。ただの戯れを説明する言葉を持たなかった若は朝顔の問いかけに苦笑でもって応える他なかった。日陰になっている釣殿に上ったことで少し周囲と区別がしやすくなった朝顔の化生は、若から答えが返って来なかったことの意味を察した様子で頷いて見せる。それから、彼女は若に竿を上げるようねだった。不思議に思いながらも言われるがまま、若は竿を持ち上げる。水面から出現した糸の先に真っ直ぐな針がついているのを見て、朝顔の化生はおかしそうに笑った。
『若は、まるで太公望ですね』
竹竿は若がこしらえた物であるが、真っ直ぐな針を使ったことはまったくの偶然であった。若は太公望の説話を知らず、またその名を聞いたのも初めてだったため、朝顔の意図が読み取れずに眉をひそめる。
「太公望とは?」
『太公望とは
朝顔の言葉には初めて耳にする名称が数多く登場したため、若はすっかり困惑してしまった。若の理解が追いついていないことを察した朝顔は一度言葉を切り、ゆっくりと説明を加えていく。
『若がいらっしゃるこの邸宅は日本という島国の内部にあります。日本の北西には大陸があり、周というのは大陸にかつて在った王朝の名です。太公望という人はその周という王朝の軍師だった人物なのです』
古代、中国には
「軍師とはどういったものなのだ? 何故、真っ直ぐな針で糸を垂れる者を太公望だと言ったのだ?」
子供のような無邪気さで漆黒の瞳を輝かせている若に対し、朝顔の化生は童らしからぬ穏やかさでもって応じた。
『若、一度に訊かれましても一つずつしかお答え出来ませんよ?』
「そうであったな……。ではまず、軍師とはどういったものなのか説明をしてくれ」
『はい。軍師とは、将のもとで作戦・計略を考え巡らす人のことです』
軍師の説明に加え、朝顔の化生は
『太公望という別名について、このような話があります』
呂望は黄河の支流の一つである
『渭水で釣り糸を垂れていた時、太公望は曲がっていない真っ直ぐな針を使っていて、水中にも入れていなかったと聞きます。しかし彼は大魚を釣り上げ、その腹からは
六韜とは、兵法書である。兵法書とは戦争などにおいて兵の用い方を説いた書物のことであり、中国における兵法の代表的古典とされる書物を武経七書という。六韜はその武経七書の一つであるが、これは後世の偽作である。
「それで太公望のよう、か」
壮大な物語を聞き終えた若は感嘆のあまり長く息を吐き、空の遠くへ思いを馳せた。朝顔の化生も口を噤んだため、二人の間にしばしの静寂が訪れる。ひとしきり余韻を楽しんだ後、若は健やかな微笑を朝顔の化生に向けた。
「そなたの話に心が躍った。このような高鳴りを覚えたのは初めてだ」
『若がお気に召されたのでしたら、私も嬉しく思います』
「そなたに報礼を与えたい。何か、望みはないか?」
夜伽話の後は自らの血肉を持って化生に報礼を与える。そうした関係が当たり前である若にとってこの申し出は至極自然なことだったのだが、朝顔の化生は困ったように微苦笑を浮かべた。
『私はまだ肉を得ることが出来ません。お気持ちだけ、頂いておきます』
化生が血肉を欲する時、彼らは人間に触れることの出来る存在となるために肉体を得る。この行為を受肉と言い、受肉は
『私は大陸から参りましたので、まだこの国の土と同化が出来ないのです』
「それは、どの程度の時間を要するものなのだ?」
『そうですね……私の場合はあと百年ほどでしょうか』
朝顔の化生はさらりと言ってのけたが、気の遠くなるような時間に若は空を仰いだ。そもそも人間と化生では生涯に費やす時間の長さが異なるため、捉え方が違いすぎるのだ。
「百年か……」
化生に食い尽くされずとも、百年後には若は人間ではいられない。自らの血肉を与えることでしか情報を得る術を知らない若は落胆し、肩を落とした。
『若? どうなさいました?』
「そなたの話をもっと聞かせてもらいたかったのだが無償というわけにもいくまい」
美しい面に暗い影を落とした若とは対照的に、彼の胸の内を聞いた朝顔の化生は明るい笑い声を上げた。
『そのようなことを気にしていらしたのですか。若がお望みとあれば、いくらでもお聞かせいたしますよ』
「だが……私はそなたに何も与えることが出来ない」
言葉を紡ぎながら目を伏せてしまった若の傍へ泳ぎ寄り、朝顔の化生は肉を持たぬ腕を伸ばした。頬に触れた冷ややかさに、若は遠慮気味に目を上げる。すると朝顔の化生は童の顔に年長者の優しさを滲ませて、色彩のない瞳で真っ直ぐに若を見据えていた。
『若、姿は現せずとも私はずっと貴方のことを見ていました。若とお話がしてみたい。成長している間、私はずっとそう願ってきたのです』
対価など求めない、この時こそが幸いなのだと、朝顔の化生は言う。若は化生から好意を向けられることには慣れていたが、好意によって成り立つ関係がひどく脆いものであることも知っていたので何も言うことが出来なかった。
『大陸のお話であれば、他の方々よりも詳しくお聞かせ出来ますよ。若はどのようなお話がお好みですか?』
朝顔の化生が柔和な笑みを見せながら促すので、若の心は激しく揺れた。自戒しなければという思いが胸の片隅にあるのだが、その思いは甘い誘惑を前に静かに崩れ去っていく。欲を満たしたいという衝動を抑えこむことが出来なかった若は結局、化生と付き合うことの難しさを知りながら問いを口にしてしまったのだった。
夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の珍しき昼間の物語である。
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