時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。
山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で、寝殿の主である青年は湯帷子姿のまま床に就いていた。風通しのよい寝殿には春の夜風が吹き込んでいて、真黒な青年の髪を撫でるように揺らしている。夜陰において頬の白さを際立たせている彼は『若』と呼ばれる存在である。むろん授かった名ではなく、その名称を口にする人間すらこの邸宅には存在しなかったが、それでも若はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……そなたか」
浅き夢から目覚めた若の口唇から紡ぎ出されたのは呼びかける言葉。けだるそうに再び瞼を下ろしてしまう前に、彼の漆黒の瞳は陽炎のようにぼんやりと立ち上る白い姿を捉えていた。横たわる若の目前に顔を寄せてきているのは唐衣の女人である。だが若の頬にかかる女の髪に色素はなく、また彼女には重さもなかった。
『若、春でございます』
梅の香と共に寝殿へやって来た女は化生であり、名を
「そう急くな。今、起きる」
穏やかな束の間の眠りに心を残しつつも、若は白の求めに応じて仕方なく上体を起こした。肉を持たない白の体を突き抜けてから夜具を退け、周囲を見渡すと、蝋にはすでに火が入れられていて闇に仄かな光を放っている。また月も満ちているようで、人間である若にとっても明るさに不足はなかった。
『若、お召し物はそのままでよろしいのですか?』
湯浴みをした時の姿のままでいる若に、白が気遣うような言葉を投げかけてきた。しかし言葉とは裏腹に、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。妖美な笑みを一瞥しただけで白から視線を外した若は無感動に頷いて見せた。
「すぐ乱れる」
『まあ、そうでしたわね』
唐衣で口元を覆いながらころころと笑い声を立てる白の様は、さながら人間の女房のようであった。彼自身は世俗を目の当たりにしたことがないが夜伽話として女房のことは聞かされているので、想像を巡らせることは出来るのだ。
「白、
例年、中島に植えられている紅白の梅は同時期に咲き揃う。若の発した問いに他意があったわけではないのだが、それまで鈴のように響いていた白の笑い声がぴたりと止んだ。
『若は年増の白よりも、若輩の紅がよろしいのでしたわね』
あらぬ方向へ顔を背けて拗ねる白に年増などという表現は似合わない。化生に醜い者など存在せず、彼女たちはただ幽玄の美をもって年輪を重ねるだけなのだ。しかし一度こうなってしまえば、白にはいくら弁解をしても通じない。そのことを心得ている若は小さく息をつき、彼女が待ち望んでいる話題を口にすることにした。
「白、世俗の話を聞かせてはもらえないか」
それまで拗ねていた白もこれには目を輝かせ、若の傍へ降り立つ。
『受肉しても、よろしいのですね?』
らんらんと輝く瞳で伺いを立てる白に、若は無言で頷いて見せた。若の許しを得た白は空中を漂うことをやめ、ゆっくりと畳に足をつける。すると植物が大地に根を張るように足元から、彼女の姿は背後にある景色を通さなくなっていった。
受肉とは、触れることの叶わぬものから触れることが出来るものとなるよう肉体を得ることである。だが受肉をしても化生の風貌はさほど変わらず、白の真白な髪は畳の上を這い、瞳は朱色に光を放っている。さらには紅を引いたような赤い口唇と、同色の長く伸びた爪が、彼女が化生たる証として誇らしげに主張していた。
「若、こちらへ」
肩口から垂れ下がる白髪を後方へ流し、畳の上で正座をした白が己の膝を指す。若は短く息を吐き、それから白の膝に頭を預けた。白梅の化生からは香よりも控えめであり、それでいて鮮烈な梅の芳香が立ち上っている。梅の香に惑わされた若はまどろむように瞼を下ろしながら口火を切った。
「今宵はどのような話を聞かせてくれる?」
「若は万葉集というものをご存知ですか?」
「聞き覚えがある。確か、歌集ではなかったか?」
「その通りでございます。天皇から庶民にいたるまで、様々な者の歌が綴られておりますわ。歌人の一人、
我も見つ 人にも告げむ
手児名という名称が地名なのか人名なのかも解らなかった若は、その旨を白に問いかけた。すると何故か、白は嘲りを口調に孕ませながら説明を加える。
「身投げをした娘の名ですわ。このような話が残っております」
昔、真間山のふもとに美しく清らかな娘が住んでいた。娘は真間の井戸の水を汲みに毎日里までやって来たのだが、美しい娘を見初めた里の男たちは次から次へと彼女に結婚を申し込んだ。そのことに思い悩んだ娘はついに、真間の入り江に身投げをしてしまったのである。この美しい娘の名が手児名なのだ。
「山部赤人の句は身投げをした娘の墓を訪れた時のもので、挽歌でございます」
「挽歌とは?」
「人の死を悲しむ歌のことでございます。死を悲しむなど、人間とは脆弱で哀れなものですわね」
あからさまに人間を蔑視した白に限らず、化生は人間を蔑む傾向にある。それは彼女達にとって人間が血肉を得るための糧にすぎないからだと、若は理解していた。だが人間は、死を悼む。近しい者はおろか、時には一度も会ったことのない者のためにも涙し、祈りを捧げる。そこには故人の生き様に共感し、尊ぶ精神が内在しているのだ。白はそうした人間の情緒を小馬鹿にしたが、人間である若にはそれが自然で、とても趣がある事柄のように思われた。
「私も人間なのだがね」
若が零した独白は白の意見に反発したという代物ではなかった。ただ彼は、事実を述べてみたくなっただけなのである。そうした若の胸中を汲み取ったとは思われなかったが、白は華のある声で笑った。
「若は、別ですわ」
白の言葉が終わると同時に若の体が、まるで糸に吊られた人形のように傾いた。白の膝の上で仰向けに転がった若の瞳に、化生の妖艶な姿がくっきりと映し出される。
「ときに、若。そろそろよろしいのでは?」
艶やかな紅の口唇が笑みの形に歪み、若は彼女が渇いていることを悟った。白の求めに対して自分が何をしなければならないのか承知している若は彼女に頷いて見せ、それから上体を起こす。まるで自らの身を差し出すかのような仕種で夜具に横たわった若に、白はすぐさま口唇を重ねてきた。
「若、心の臓をいただいてもよろしいですか?」
若は己が身が贄であり、女たちの慰み物でしかないことを、よく理解していた。だがその申し出だけは、即座に断り続けている。
「脾臓をくれてやる。それで我慢をしてくれ」
「脾の臓、でございますか……」
「血を、好きなだけ啜るといい。そなたの紅が真紅に染まるまで」
脾臓と聞いて不服そうな表情をしていた白も、この申し出には嬉しそうに瞳を輝かせた。
「光栄ですわ、若」
横たわる若から少し身を離した白は彼の目前に皺一つない手の甲を掲げて見せた。彼女の長く伸びた紅い爪は先端が鋭利な刃物のように尖っていて、白はそれを若の首筋へと這わせる。だが引き裂かれた皮膚から鮮血が滲んできても若に痛みはなく、彼は白が血を吸い上げている間、ぼんやりと空を見つめていた。血液は、失っても再びつくられる。しかし失った臓器は戻っては来ず、そうして一つずつ、若は人間でありながら人間ではないものに近付いていくのだ。
「……紅」
若が不意に零した囁きにも似た言葉を聞きつけ、白が嫌そうな表情をして面を上げた。
「厭ですわ、若。わたくしを紅とお間違いになるなど失礼だと思われませんこと?」
「紅が、そこにいるのだ」
もともと紅かった口唇も、真白だった髪までもが真紅に染まった白へ向けて、若はやんわりと諭す言葉を口にした。白は重さをまとった上体を起こし、若が示した方向を顧みる。そこでは頬を大きく膨らませた紅が、中空に漂っていた。
『ずるいですわ、白さま。若を独り占めなさるのは他の方々にも反感を買いますわよ』
紅梅の化生である紅は受肉をする前から真っ赤な髪をしており、瞳の色は花粉にも似た黄である。彼女は白よりも歳若いので髪は肩口にあり、爪もまださほど伸びてはいなかった。若の上から体を退けた白は子供の形をしている紅を見下すような目で見た後、そっぽを向いて口唇を尖らせる。
「わたくしは夜伽のお相手をしていただけですわ。いつものように」
『それならば私にも資格がありますわ。若、私にも受肉のお許しを』
「まあ、はしたない。少しお控えあそばせ」
『白さまに言われたくないですわ。白さまだってさきほど、若にねだっていたではありませんか』
「ねだってなどいませんわ。失礼な」
『あら? 私には心の臓をいただけませんかというお言葉が聞こえましたが?』
「盗み聞きですの? 無礼にも程がありますわね」
白と紅の口論は無意味に、放っておけば延々と続く代物である。夜具の上で体を起こした若は彼女たちに構わず南庭へと目を向け、独白を零した。
「そうか。中島に紅白の梅が咲き揃ったか」
独白の形を借りた若の介入に、白と紅は囀るように言葉を生み出していた口唇を結んだ。彼女たちが大人しくなったことを見て取った若は双方に、柔らかな微笑を向ける。
「
若のこの言葉は暗に喧嘩をやめろと諭しているようなものであり、彼の意を正しく受け止めた白と紅は口調を改めた。
「もちろんですわ、若」
『お待ちしております、若』
一度は恭しく面を伏せた女たちも、再び顔を上げた時には化生の本質を露わにしていた。彼女たちの内部で生々しく息衝いているであろう衝動を思い遣った若は静かに頷いて見せる。
「肺か腎臓をくれてやる。仲良く分け合え」
己の一言で狂喜する女たちを横目に一瞥し、若は贄となるべく自ら夜具に横たわった。
夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。
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