夜伽草子

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長月、人間再来


 時は平安、後一条天皇の御代。京の都では国風文化が花開いた、貴族達の華やかな時代である。山紫水明の山城盆地に住まう貴族達は粗野な自然から遊離した華やかな都の中でこそ自然を愛しみ、季節の移ろいや変わりゆく人の心を情緒的に表現した。しかしこの物語の舞台は貴族達が独自の文化を生み出した京の都ではなく、都の華やかさからはかけ離れた飛騨の深山にひっそりと佇む寝殿造りの邸宅である。

 山の奥深くに人目を忍ぶように存在するその邸宅は、平素であればおとなう者などありはしない。それは人間に限らず、鳥獣もまた然りである。だが長月のある宵、飛騨の山中には人間の姿があった。月明かりに照らされた二つの人影は目的意識を持って道なき道を進んでいる。そして山中には似つかわしくない寝殿造りの邸宅を眼下に捉えた時、彼らは歩みを止めて異様な雰囲気を漂わせる邸宅を観察するように見入ったのだった。








 山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で、寝殿の主である青年は雲一つない天を仰いでいた。中秋観月は過ぎたものの長月は虚空に浮かぶ月が美しい季節であり、冴え冴えとした月光が青年の白い頬に差している。直衣(のうし)という出で立ちで広廂(ひろげさし)に佇んでいる彼は『若』と呼ばれる存在である。無論その呼称は親から授かったものではなく、若自身も己が何者であるのか知らない。人間も獣も寄り付かない邸宅においては自身の出自を知る術がなく、また知ろうと思うことすら無意味なのだった。

 この邸宅では平素、夜になると人間でない者が若の元を訪れる。だが今宵は来訪者がいる気配もなかったため、若は寝殿の南に広がる庭に視線を転じて嘆息した。彼の唯一の娯楽は人外の者から見返りとして与えられる夜伽話である。今宵はそれがないため、若は秋の夜長をどう過ごしたものかと途方に暮れていたのであった。

 暇を持て余した若は夜風の冷たさが障ったので寝殿に戻ろうと踵を返した。しかし視線のようなものを感じ、すぐに足を止めて後方を顧みる。振り向いた若が目にしたものは庭に落ちている小さな影であった。月明かりの只中にちょこんと座している珍客は猫と呼ばれる動物である。若は猫を目にするのが初めてということもあり、その場に立ち止まったまま呆然と珍客の姿を見つめていた。

 月光を満身に浴びながら南庭に座していた黒い猫は、やがて若の方へと歩み寄って来た。その動きを目で追っていた若は、猫が簀子(すのこ)にまで上がってきたので驚きを露わにする。しかし面を上げた猫と目が合った刹那、若の心は自然と平静に戻っていった。静謐を湛えているような猫の瞳は金色をしており、そのことが若に月を仰いだ時のような静けさを与えたのである。とはいえ未知の物体であることに変わりはなく、若は一定の距離を保ったまま行儀よく簀子に座している猫に話しかけた。

「そなたは何処(いずこ)から参ったのだ?」

 化生と共に生きる人間である若は猫もまた化生であると考えたのであった。だが黒猫は答えず、人語を理解しているのかも定かではない。ふと、皐月にも迷い人があったことを思い出した若は急いた気持ちになり、再び猫に声をかけた。

「ここはそなたのような者が訪れる場所ではない。疾く、帰るといい」

 猫は若に応えるように鳴き声を発し、長い尾をぴんと立てて動き出す。猫が門のある西の方角へと歩き出したので、その丸い背中から視線を外した若は寝殿へ戻るために踵を返した。しかし再び鳴き声が聞こえてきたので、若は慌てて背後を振り返る。すると簀子から庭へと下りた猫が、その金色の瞳で真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 猫は、若が寝殿へ戻ろうとすると鳴き声を上げるという動作を繰り返した。同じ仕種を幾度か目にするうち、猫の意図を理解した若は周囲に気を配りながら庭へと下りる。若がそうすることを待ち望んでいたかのように、猫は彼を誘導する形で歩き出した。そうして辿り着いたのは、屋敷と外の世界を隔てている築地(ついじ)が途切れる西門であった。

 猫と同時に歩みを止めた若は目前に立ちはだかった門を重苦しい気持ちで仰いだ。固く閉ざされた門は若が人間である限り、彼に道を開くことはないだろう。そう思い込んでいた若にとって、その強固な門が外側から開かれたことは驚愕に値した。しかも扉の外には、人間の姿があったのである。敷居の向こう側に佇んでいた二人の人間は一方が大柄、一方が小柄であり、彼らは共に狩衣(かりぎぬ)という出で立ちをしていた。立烏帽子(たてえぼし)を被った人間達は貴族であるが、人間の装束に詳しくない若にはそのようなことを知る由もない。貴族達は若を観察するように視線を走らせていたが、それも束の間のことであり、やがて大柄な男が人好きのする笑みを浮かべた。

「これは、お美しい若君だ」

 驚きのあまり言葉を失っていた若はその一声で我に返った。人間達の視線が紛れもなく自身に向けられていることを認識した若は困惑しながら言葉を紡ぐ。

「そなた達は一体……」

「説明は後ほどいたします」

 小柄な者が余計な会話を嫌うように遮ったので、大柄な男を仰いでいた若はそちらに目を向ける。硬質な声音は女のものであり、若は改めて見た小柄な者が男装している少女であることを知った。少女は大柄な男に屈むよう指示を出し、袖から取り出した和紙を男の立烏帽子に貼り付ける。少女が言葉を紡ぐと和紙に描かれた文様が光り出したが、奇異な出来事はすぐに収まった。

「式が誘導いたします。札が剥がれないようご注意ください」

 大柄な男にそう言い置いてから、少女は足元に目を落とした。彼女の傍には若を西門へ誘った黒猫が控えており、猫は少女の意を受けて歩き出す。同時に大柄な男もまた、猫に従って屋敷の中へと歩を進めた。

「若君、こちらへ」

 男が門をくぐった刹那、少女が立ち尽くしていた若の腕を引いた。男と入れ替わる形で敷居を跨いだ若は瞠目する。この時、彼は初めて屋敷の外へ出たのであった。

 呆然と立ち尽くす若を尻目に、少女は手早く門を閉ざした。慣れぬ外気に晒された若は閉ざされた門を振り返った後、困惑しきった面持ちを少女に向ける。

「そなた達は人間、なのか?」

「人間にございます。私は陰陽寮の修習生、屋敷へ参ったお人は藤原北家に連なるお方にございます」

 陰陽寮とは律令制における八省の一つである中務省(なかつかさしょう)に属する機関の一つである。陰陽寮には陰陽道に基づく呪術を行う陰陽師がおり、さらに陰陽師を養成する者や占星術を行使・教授する博士なども在籍している。また藤原北家とは藤原不比等(ふひと)の次男である藤原房前(ふささき)を祖とする家系であり、藤原氏は平安時代に栄華を極めた貴族である。だが世情に疎い若には少女の説明を半分も理解することが出来なかった。自身の置かれた状況を何一つ把握出来ないままでいる若はさらなる説明を求めたが、少女は小さく首を振る。

「申し訳ございません。時間がないので手短に話をさせていただきます」

 少女が早くに話を切り上げようとしているのには理由があった。それは山中に存在する邸宅が化生の巣窟となっており、彼らにこの逢瀬を知られてしまえば大変なことになってしまうからである。

 少女達は若を都へ迎えるためにやって来た使者である。本来であれば若と出会ったこの夜に彼を導かなければならなかったのだが、予想以上に物の怪の力が強すぎた。そのため勅命を果たすことを断念した少女は、せめて若と話だけでもしておこうと思ったのである。若と話をするためには化生の支配下にある邸宅から連れ出す必要があり、そのため少女は同行者である男を身代わりとすることで化生の目を欺いたのだった。だが呪力を込めた札の力は一定の時間しか効果がない。若はそのような事情など知らないが、少女が真剣な表情をしていたので黙って話に耳を傾けることにした。

「若君は皇統に連なるお方なのです。若君のことをお知りになった主上(おかみ)は若君の数奇にお心を痛めておられます」

 そう語った少女の話によれば、若は冷泉(れいぜい)天皇の皇子であるとのことだった。冷泉天皇は非常に容姿端麗な人物であるが精神の病があり、数々の奇行を残している。その奇行によって産まれたのが若であり、彼はまた父親である冷泉天皇の奇行によって贄として差し出されてしまったのであった。

 都では、贄として捨てられた皇子の話が真実味のない物語として囁かれていた。しかし飛騨の深山に盗賊が逃げ込んだことにより、事態は急変したのである。皐月の夜、化生の棲む邸宅に迷い込んだ盗賊は食い尽くされてしまったが、盗賊を追っていた追捕使(ついぶし)が飛騨の深山に異様な屋敷が存在していることを目撃していた。このことが朝廷に報告されて後一条天皇の耳に入り、冷泉天皇の皇子の話が俄かに真実味を帯びたのである。捨てられた皇子を哀れんだ後一条天皇は陰陽寮に勅命を下し、そして少女が飛騨の深山に派遣されたのであった。

 天皇や都の仕組みについてまったくと言っていいほど知識のない若には、やはり少女の話を理解することが出来なかった。ただ彼は、少女が己を連れて都へ行くつもりであることだけは察していた。しかしそのことを喜ばしいと感じるべきなのか、若には解らなかったのである。若がどのような態度を取っていいのか分からずにいると、ひとまずの説明を終えた少女がそこで初めて表情を変えた。それまで精悍であった少女の面には微かな憐憫が滲んでおり、その意味が分からなかった若は狼狽する。若の困惑を察した少女は再び表情を消してから口火を切った。

「若君、私は勅命を果たすために貴方を都へお連れするつもりでした。ですが若君は、すでに人間ではなくなりつつあります」

 少女の言葉に若の心臓は激しく脈打った。動悸に襲われた若は胸に手を当て、恐る恐る口唇を開く。

「そなたには私の行く末が見えているのか?」

「いいえ。私に見えているものは花です」

「花……?」

「腎臓に紅白の梅、腸に杜若、肝臓にあやめ、胃に山茶花、胆に椿。若君、化生に臓腑を与えられましたね?」

 どの化生にどの臓腑を与えたのかまで言い当てられた若は閉口した。少女曰く、若の体内では失った臓腑の代わりに妖花が咲いているのだという。禍々しく毒々しいと吐き捨てた少女は嘆息してから言葉を次いだ。

「若君、五臓六腑を食い尽くされると貴方は人間ではなくなります。そのようなお方を主上の下へ連れて行くわけには参りませんので、都へ行くおつもりがあれば、若君には戦ってもらわなければなりません」

「戦う、とは?」

「自らの手で化生を滅し、失った臓腑を取り戻すのです」

「そのようなことが……」

 化生を滅することが人間に可能なのかと、若は訝った。少女は小柄な体から自信を漲らせ、その点については頷いて見せる。しかしすぐ、彼女は再び哀れみの視線を若に向けた。

「若君、貴方は長く人間の世を離れていたお方です。いまさら人間の世に戻ることが若君にとって幸せなことであるのか、私には解りかねます」

 都では処世術が物を言う。それは長く人間の世を離れていた若には欠乏している要素であり、すぐに身に付くものでもない。そう説明した後、少女は同行者についても触れた。

「主上には御子がおりません。藤原の者が直々に若君を拝見したいと申したのは何事かを謀っているのではないかとも思われます」

 藤原の者と都へ行けば政争に巻き込まれる可能性があるのだと、少女は言っていた。だがこのまま飛騨の山中にいれば、若はいずれ人間ではなくなる。物の怪を退治することも陰陽師の仕事なので、少女は化生には容赦しない旨も若に告げた。

「……若君、これをお持ちください」

 あらゆる道を塞がれてしまった若は言葉もなく立ち尽くしていたが、少女が何かを差し出したので我に返った。

「これは……?」

「陰陽師の使う札です。また師走に参りますので、その時までにお心を決めておいてください」

 使い方を説明した後、少女は若の手に札を握らせると門を開けた。そこにはすでに黒猫と立烏帽子に札を貼り付けた男の姿があり、少女は若に屋敷へ戻るよう促す。半ば強引に敷居を跨がされた若は呆然としたまま背後を振り返り、そのまま少しずつ閉ざされていく扉をじっと見つめていた。






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