夜伽草子

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霜月、山茶花


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年。これは人間の男と美しき化生どもの織り成す夜伽の物語である。








 空から舞い落ちる花片(はなびら)雪が深々と降りしきる霜月の夜、山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で寝殿の主である青年は床に就いたまま雪化粧の庭を眺めていた。血の気のない顔色をして横たわっている彼は『若』と呼ばれる人間である。若の痩けた頬は新雪に劣らないほど白く、自らの意思で動かすことの難しい彼の体は二十歳前後の若者にしてはずいぶんと華奢であった。漆黒の瞳は虚ろではなかったが、庭を見据えていながらも心はその場所に留まっていない様子である。しかし広廂(ひろげさし)に女が姿を現すと、若の瞳はそちらに向けられた。

 若の瞳が捉えた者は唐衣(からぎぬ)を纏った女房であった。彼女は黒髪に黒い瞳をしており、髪には淡紅色の花を差している。一見すると人間のようであるが、女房の顔立ちは見る者に一抹の不安さえ抱かせるほど整っていた。彼女は床に横たわったまま自身を見上げてきている若に完璧な微笑みを向け、それから形の良い口唇をゆっくりと開く。

「若が凍えてしまわぬようにと、炭をお持ちいたしました。伺いを立てずに受肉いたしましたこと、お許しくださいませ」

 女房が口にした『受肉』とは、化生が肉体を得ることである。その言葉の通り火鉢に炭を足している女房は人間に近しい姿をしてはいるが、その本質は化生なのであった。若は女房の垂髪(すいはつ)に彩りを添えている山茶花(さざんか)を一瞥し、小さく息を吐く。

 若の元を訪れる化生の多くは彼に許しを請う形で受肉をする。しかし若は化生たちの主ではなく、ただの贄なのである。従って伺いを立てるという形式も戯れのようなものであり、山茶花が許しを得ずに受肉をしたからといって若には咎め立てをする謂れもなかった。

「温かくなった。礼を言おう」

 床にいるとはいえ寒さを感じていたのは事実だったので、若は山茶花に謝意を示した。山茶花の化生は美しく微笑み、若に寄り添って横たわる。訝しく思った若は首を傾け、己の顔が映るほど間近にある山茶花の瞳を見つめた。山茶花は触れるだけの口づけをした後、若の耳元に口唇を寄せる。

「若、私はもう待つことが出来ません。今宵こそ若を私だけのものに」

 山茶花は甘えるような声で囁いたが、化生と共に生きる若にはそれが愛の囁きなどではないことが解っていた。わざわざ体を密着させて秘め事のように零した山茶花が本気であることを即座に理解した若はさっと青褪める。

 この屋敷にいる化生は花々の化身である。化生たちはそれぞれの季節に花を咲かせると若の元を訪れるのだが、冬のこの時期は活動可能な者が少ない。山茶花はそれを見越して毎年、若に臓腑を強請ってきたのであった。しかも山茶花が一途なまでに欲しているのは若の心臓なのである。

「私、心の臓が一番の好物ですの。若の胃も美味でしたが、心の臓はどのような味がするのかしら」

 山茶花が押さえつけるように圧しかかってきたので、とっさに体を起こした若は彼女の体を組み敷いて無我夢中で口唇を重ねた。しかし体力・気力ともに消耗していた若はすぐに力尽き、下敷きにした山茶花に覆いかぶさる形で脱力する。己の肩口に収まった若の頭を優しく撫でながら、山茶花はくすくすと笑い声を漏らした。

「殿方に襲われるというのも、たまにはいいものですわね。若、このまま夜伽話などいかがですか?」

「……聞かせてくれ」

 床に広がった山茶花の髪に埋もれながら若はくぐもった声で返事をした。山茶花は若の頭を己の胸の上に移動させ、若の髪に細い指を差し入れながら口唇を開く。

「若はどのようなことをお聞きになりたいですか?」

 声を発してはいても、山茶花の胸は動くことがない。心音さえ聞こえない豊かな胸の中で瞼を下ろしながら、若は問いの答えを口にした。

冷泉(れいぜい)天皇とはどのような人物であったのか、聞かせてくれ」

「冷泉……ああ、よく覚えております」

 冷泉天皇の御世は後一条天皇の治世中から見ると五十年ほど前のことである。しかし山茶花はすぐその名に思い至ったようで、皮肉げな口調で話を始めた。

「彼は非常に容姿端麗な人物でしたが気狂いでした。自身が病に伏しているのに大声で歌を歌ったり、住んでいた場所が火事になった時も避難しながら歌っていましたわね。儀式の最中に冠を脱ぎ、近くにいた娘を姦したなどということもありました」

 娘が姦されたと聞いた刹那、若はどきりとした。体を接しているため鼓動の変化が伝わったようで、山茶花が怪訝そうな声を上げる。

「若、どうかなさいましたか?」

「……いや」

 短く言い置き、若は山茶花の胸から体を退けた。再び仰向けに転がった後、若は話を続けるよう山茶花を促す。しかし山茶花は少し困ったように苦笑した。

「冷泉という者に対して、これ以上お話しするようなことはございませんわ。若が奇行を具に知りたいと仰られるのでしたら、お教えいたしますが」

「……そうか。もう、いい」

 若は小さく息を吐き、やるせない気持ちを抱きながら目を閉ざした。

 長月の夜、若の元を訪れた人間は冷泉天皇が若の実父であることを伝えた。顔を見たこともない冷泉という天皇が父親であるという実感はなかったものの、それでも父親であると言われている者の奇行を耳にすることは少々苦痛である。自身が父の奇行によって産まれ、父の奇行によって捨てられたと教えてくれた少女の顔を思い出した若は知らずのうちに嘆息を零していた。

「若、ご気分が優れませんか?」

 山茶花が声をかけてきたことで我に返った若は次の問いを探した。会話を途切れさせてはならないと強く感じていた若は、とっさに現在の天皇について問いを重ねる。山茶花は忙しない若の様子を訝るでもなく、淡々と答えを口にした。

「現在の天皇は藤原氏の外孫です。叔母にあたる者を中宮としていて、他の妃はおりません。まだ跡継ぎは生まれていないようですわね」

「……そうか。子に恵まれぬとは不憫であるな」

「それは、どうなのでしょう。血の繋がりなど脆いものです」

 若はどのような内容であれ会話を成立させようとしていたのだが、山茶花のこの一言には返す言葉がなかった。血を分けた者に捨てられた若自身が、山茶花の冷淡な言葉を体現しているからである。若が閉口したので添い寝をしていた山茶花が体を起こした。目前に再び端正な女の顔が据えられたので、若は慌てて体を起こすことを試みる。しかしそれは山茶花に阻まれてしまい、若は床にべったりと背をつけた。

「私がどれほど貴方に恋焦がれているか、若は知らないのです」

 それまで漆黒であった山茶花の瞳が剣呑な光を宿す。次第に朱へと変化していく山茶花の瞳に魅入られた若は寒気を感じ、圧しかかってきている女の体を跳ね除けようとした。だが化生の本性を露わにした山茶花が抵抗を許すはずもなく、首筋に口唇を押し付けられた若は脱力して腕を下ろす。ぐったりとした若の姿を見下ろした山茶花は雅な笑みを浮かべた。

「若、私のものになってくださいまし」

 山茶花はそう言い放つと、自身の顔の前で手を広げて見せた。先程まで人間と同じ程度の長さであった彼女の爪が、瞬く間に伸びていく。精気を奪われた若にはもう抵抗する術がなく、彼は虚ろな瞳で山茶花の動作を見つめていた。

 淡紅色の山茶花の爪が、若の胸にゆっくりと沈んで行く。化生に蹂躙されている時に痛みは感じないのだが、山茶花が臓器を取り出すと途端に血が香った。臓器を片手にしている山茶花は空いている手で髪に咲いている花をむしり取り、それを若の胸に沈めてから血まみれの己の手に意識を注ぐ。取り出したばかりの新鮮な心臓はまだ脈打っており、留まることのない鮮血が彼女の唐衣に染みこんでいった。

「この滴り落ちる血の瑞々しさ。生命の息吹を感じますの」

 山茶花は恍惚の表情で美しい面を心臓に寄せ、血管に沿うように舌を這わる。口の周りを深紅に染めた彼女は貪るように血を啜り、ゆっくりと時間をかけて惜しみながら若の心臓を食していった。ぼんやりと天井を見つめていた若は次第に痛み出した胸を押さえ、仰向けに倒れた姿のまま力なく咳き込む。陸に上げられた魚のように喘ぐ若の口唇からは淡紅色をした花びらが一片、零れて消えた。








 夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。






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