夜伽草子

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師走、夜に口遊む


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる人間の青年である。この屋敷には若の他に人間の姿はなく、彼は独りきりで暮らしていた。

 降り積もった雪が月光に照らされて白銀に輝く師走の夜、若は寝殿を後にして屋敷の北東へ向かっていた。寝殿から渡殿(わたどの)を伝って東対(ひがしのつい)へ行き、東対からさらに北へ向かい、簀子(すのこ)を下りる彼の足取りは些か急いているようである。新雪を踏みしめた若は足跡を残しながら歩を進め、北の外れに植えられている大木の前で足を止めた。若の目前では雪を被った(けやき)の大木が、重そうに枝を垂れさせながら佇んでいる。腕を回しても到底抱えきれないほど太い幹に触れた若は眉宇に憂いを滲ませた。滑らかな手触りをしている樹皮は硬く、まるで若の来訪を頑なに拒んでいるかのようである。若はしばらく幹に触れたまま黙していたが、やがて彼は形の良い口唇を開いて言葉を紡ぎ出した。

「……乳母(めのと)

 若の呟きはか細く、山奥の静寂にすぐ紛れてしまった。欅は雪を落として反った枝を正常な位置へ戻すということをしたが、それは若の呼びかけへの対応ではなく自然な動きである。言葉を交わす相手のいない若は途方に暮れる思いで月下に立ち尽くしていた。

 飛騨の山中に建てられた邸宅は貴族の住いと同様のものであったが、この屋敷に棲んでいる者達は人間ではない。人間を食らう化生が蠢動(しゅんどう)する屋敷において、若は物心ついた時から贄として過ごしてきたのである。彼は先頃まで乳母の存在を失念していたのだが、ある出来事を契機に自身を育ててくれた女房のことを思い出した。会いたくてたまらない人物は、この欅の内部(なか)にいるはずなのである。だが彼女は呼びかけに応えてはくれず、孤独に押し潰されそうになった若は欅の幹に頬を寄せた。失念していたことに対する慙愧よりも、今はただ恋しさばかりが募って仕方がないのだ。

『わ……か……』

 頬を寄せた幹から聞こえてきた微かな声に、若は弾かれたように面を上げた。しかし若の周囲には人影がなく、空中を漂う化生でさえ姿を見せてはいない。だが空耳だとは思えず、若は欅に視線を戻して耳を澄ました。すると再び、今にも消え入りそうな女の声が若を呼ぶ。その声はやはり、太い幹の内側から聞こえてきているようであった。

「乳母……そこに、いるのか」

 若が呼びかけると欅の巨木は頷くように振動した。幹の一部が闇に吸い込まれるように消えて行き、若の目前に洞を出現させたところで欅は沈黙する。若は躊躇うこともなく幹にできた空洞へと進入していった。

 洞の内部には闇が広がっていた。樹木の内部と外界を繋いでいた洞は若が進入してすぐに消滅したため、彼は自身と闇の境界も分からないほどの深い暗色の海に身を委ねている。地に足をついているのかも定かではない状態であったが、若は不安を感じてはいなかった。優しい闇は母胎のように彼を包み込んでいるのである。

『化生に心臓を、奪われたのですね』

 闇の中に不意に、女の声が響き渡った。いくら周囲を見回しても姿は見えないが、その声は若の記憶に刻まれている乳母のものである。この乳母は若を手放す際、自身のことを忘れるよう彼に呪いをかけた。その呪いは若が化生に心臓を奪われた時に解ける仕組みになっていて、そのため霜月に心臓を奪われた彼は何年も失念していた乳母のことを思い出したのである。しかし若自身は、そのような事情があることなど露ほども知らなかった。

 化生どもに血肉を与え、慰みものとなることが若の宿命であるが、少しでも長く人間(ひと)でありたいのならば心臓を護れと、乳母は幼い彼に教えこんだのである。乳母の記憶は封じられていても彼女の教えは若の内部でしっかりと息衝いており、彼は乳母の助言に従って日々を過ごしてきたのだ。それだけに記憶が戻った今、若は心臓を奪われたことが不安で仕方がなかった。

「心臓を化生に奪われると、どうなるのだ?」

 姿の見えない相手と言葉を交わすには何処を見ていればいいのか分からず、若は空を仰ぎながら言葉を紡いだ。闇はどこまでも高く、果てがない。下方と左右も同じく、漆黒はどこまでも続いていた。しかし何処からともなく、問いに答える乳母の声が聞こえてくる。

人間(ひと)でないものに近付く、それだけのことです。ただ人間でなくなった後、従属させられる恐れがあります』

 乳母の淡白な物言いを冷静に受け止めた若は安堵して口唇を結んだ。彼は生まれてから此の方、一度も自由であったことなどない。圧制され続けてきた若には従属と聞いても抵抗感はなく、むしろそれしきのことで済むのならばと、彼は安心してしまったのである。

『……若、』

 何事かを呟きかけた乳母の声音には微かな憐憫が含まれていた。しかし乳母は続きを口にすることはせず、口調を明るくして話を変える。

『せっかくいらしたのですから、今宵は乳母に夜伽のお相手をさせてください』

 思いがけない乳母から申し出に、若は喜んで頷いた。乳母の声に耳を澄ますため、若は闇の内部で目を閉じる。しばしの間を置いてから、乳母はゆっくりと夜伽話を語り出した。

『今は昔、とある貴族の娘がおりました。娘は都に住んでいたのですが、ある日、深い山中にひっそりと佇むお屋敷に居を移しました。年頃になった娘はそのお屋敷に嫁いだのです。そのお屋敷は立派な寝殿造りで、とても雅な南庭がございました。娘はすぐに新しいお屋敷を気に入りました。しかし娘の他には女房の姿もなく、お屋敷はとても静かだったのです』

 そこまで語ったところで乳母は一度言葉を切った。若はすでに閉ざしていた目を開けており、闇に溶けていて見ることの叶わない乳母の姿を無意識のうちに探している。乳母は淡々とした調子を崩さないまま話を続けた。

『お屋敷に嫁いで初めての夜、娘の元にとても美しい青年が姿を現しました。娘は結婚相手のお顔を知りませんでしたが、目前の美しい男性こそが契りを結ぶべきお相手であると思いました。そして娘は、その男性と(ねや)を共にしたのです。しかし翌日には、また別の美しい男性が娘の元を訪れました。娘は幾人もの男性に望まれるがまま、肌を重ねたのです。そうした生活を続けるうちに、初めはとても健康であった娘は次第に病んでいきました』

 乳母が何の話をしているのか、若にはもうはっきりと解っていた。だが容喙することは躊躇われ、若は開きかけた口唇を結ぶ。

『乳母のお話は、これで終わりです。若、どうぞ健やかに』

 優しい微笑みが目に浮かぶほど柔らかな声音で、乳母は夜伽話を締め括った。乳母の気配が闇からも失せた刹那、若の視界は眩い光に閉ざされる。娘がどうなったのか訊けないまま、若は固く目を瞑った。

 気がついた時、若は巨木の前で呆けたように立ち尽くしていた。欅の幹にはもう洞もなく、屋敷は何事もなかったかのように静まり返っている。月光を反射した雪がきらきらと輝いており、目を焼かれた若は瞼を下ろした。しかし彼はすぐに目を開け、漆黒の瞳に月を映しながら形の良い口唇を開く。




 いろはにほへと ちりぬるを

 わかよたれそ つねならむ

 うゐのおくやま けふこえて

 あさきゆめみし ゑひもせす




 若が口遊んだ今様(いまよう)形式の歌は、すべての仮名文字を使って作られている手習い歌である。若は乳母に習ったこの歌を、一言一句確かめるようにしながら繰り返し、繰り返し口遊む。若の歌声は澄んだ師走の空気に溶けてゆき、歌に含まれる無常観は侘しく雪の大地に沈んでいった。








 間もなく大祓(おおはらえ)を迎えようとしている師走のある日、雪を被った飛騨の山中に珍しき人間の姿があった。狩衣(かりぎぬ)立烏帽子(たてえぼし)という出で立ちの少女が見つめる先には山中に似つかわしくない広大な屋敷がある。真上に上っている太陽が雪を煌めかすため、少女は目を細めながら人気のない屋敷を見下ろしていた。

 屋敷の中央にある寝殿からやがて、一羽の鳥が飛び立った。白い鳥は羽ばたきながら上昇し、屋敷の上空を旋回したのち少女の元へとやって来る。少女は腕を差し出して鳥を止まらせ、その足に目を注いだ。しかし鳥の足には文がついておらず、少女は小さく息を吐く。微かに表情を曇らせた少女は眼下の屋敷へと視線を転じたが、すぐ真顔に戻った。表情を消した少女は腕を振り、鳥を払う。すると鳥は一枚の札となって空中を漂った。宙を舞う呪符を回収して後、少女は屋敷に背を向ける。その後は振り返ることもなく、狩衣姿の少女は雪の山中に姿を消したのであった。






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