夜伽草子

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弥生、藤


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年。これは人間の男と美しき化生どもの織り成す夜伽の物語である。








 月が中天に昇った弥生の夜、山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で青年は北対(きたのつい)の裏手に植えられた藤を見上げていた。直衣(のうし)という出で立ちに立烏帽子(たてえぼし)を被っている彼は『若』と呼ばれる存在であり、二十歳前後と思われる面はとても端麗な顔つきをしている。若の目前では藤棚から垂れた薄紫の花房が月光に照らされて淡い輝きを帯びており、夜の闇に幻想的な光景を作り出していた。

「……藤」

 鳥獣はおろか虫の音さえも届かない静寂に、若の零したか細い声が瞬く間に呑みこまれていく。藤の花はただ美しく咲き誇り、森閑をもって若の前に在るだけだ。

「藤」

 もう一度、今度ははっきりと、若は藤の花に向かって呼びかけた。しかし藤の花は一向に揺らぐ気配を見せない。この事態を予測していた若は眉一つ動かさずに瞼を下ろし、形の良い口唇から和歌を紡ぎ出した。




 霍公鳥(ほととぎす) 来鳴き(とよ)もす 岡辺(をかへ)なる

 藤波(ふぢなみ)見には 君は来じとや




 歌を読み終えた若は口唇を結び、一抹の不安を抱えたままゆっくりと瞼を上げた。彼の漆黒の瞳に映し出されたものは月下で美しく花開いている藤と、藤棚を背後に透かしながら空中を漂っている女の姿。人間(ひと)ならざる者を目の当たりにしたにもかかわらず、若は安堵の息を零した。

「藤」

『そのような歌を、いつ覚えられたのですか』

 無表情の内に微かな困惑を孕ませながら若に応えた女は、名を藤という。彼女はその名の通り藤の花の化生であり、淡い藤色の髪と鮮やかな新緑色をした瞳を有していた。だが他の化生とは違い、彼女の髪や爪は人間のものと同程度にしか伸びていない。それは我が強く、他者を蔑む傾向にある化生の中において、藤が異質であることの表れのようだった。化生にしては珍しく慎ましやかな気性をしている藤は他の化生と顔を合わせることすら嫌い、若が訪れなければ見る者もなくただ花を散らせてゆくのだ。

「雅な歌であろう? 霍公鳥の啼き声は知らぬがそなたの名があったので、よく覚えていた」

 化生の出現するこの邸宅には鳥も虫も飛んで来ない。それでも若が万葉集に収められている読人知らずのこの句を口にしたのは、短い刻を共にした桜の化生に倣ってのことであった。彼は直接的に求めるのではなく和歌を読むことで間接的に望みを伝えたのだが、藤は表情にいくばくかの不快を滲ませながらはっきりとした拒絶を示した。

『若、滅多なことは口になさらないで下さい』

 藤の険しい語気にも鋭いまなざしにも、強い牽制の念が含まれている。それが何を意味しているのか理解している若は藤の叱責を寂しく受け止めた。

 若は、化生にしては人間に近い思考をする藤を好いていた。だがそのような感情は疎ましいのだと、藤には以前にもはっきりと拒絶されたことがあるのだ。それは贄である彼に群がる他の化生との衝突を避けるためのものだったのか、己には人間の情愛など必要ないという化生としての誇りだったのかは、分からない。ただそれでも、若は変わらず藤を好いていた。

「藤、受肉をしてはくれまいか?」

 受肉とは、触れることの叶わぬものから触れることが出来るものとなるよう肉体を得ることである。通常であれば化生の方から伺いを立てるものなのだが、藤の花の化生は若の申し出に渋い表情をした。彼女の抱く不快感を少しでも和らげるために若は弱ったように苦笑して見せる。

「碁の相手が欲しいのだ。これはそなたにしか頼めない」

 血肉をもった交わりを望まない藤の爪は指の先端をわずかに超える程度の長さしかない。他の化生では爪が長すぎて、碁笥(ごけ)から碁石を持ち上げることさえ出来ないのだ。

『……わかりました。わたくしは先に寝殿へ参って、準備をしておきます』

 囲碁の相手と聞き渋々といった風に頷いた藤は北対を軽々と飛び越え、南庭の方角へと姿を消した。その場に一人残された若は藤の一房に軽く口づけをしてから渡殿(わたどの)へと向かう。若が寝殿へ戻った時には藤はすでに受肉を済ませており、碁盤を前に静かに座していた。

 受肉は空中を漂う化生が地に足をつくことによって成される。しかし肉を得ても姿形が変わるわけではなく、臍の辺りにまで伸びている藤の髪も短い爪も淡い紫色のままである。ただやはり、実体と(こん)では存在感が違う。藤を間近に感じることの出来る喜びを胸に秘めた若は碁盤を挟んで彼女と向き合い、その毅然とした面を見据えた。

「わたくしが白を持ちます。よろしいですね?」

 囲碁では強者が白を持つ。互い先であればニギリによって先番を決めるのだが藤は格上の相手であるため、若も異論なく黒を手にした。先手は黒であり、石の詰まった碁笥に若の指が沈む。しばしの沈黙の後、かやの碁盤に石を打つ快音が静かな邸宅に響き渡った。若の一手目は右上隅、小目。己の碁笥に指を入れる前に盤上から視線を上げた藤は、その新緑色の瞳で真っ直ぐに若を射抜いた。

「本日は指導碁でよろしいですか?」

 指導碁は対戦ではなく、上手の者が下手の者を導くためのものである。藤の問いかけは日常的な、ただの確認作業に過ぎなかったのだが、若は即座に首を振った。

「対局に応じてくれ」

「本気、でございますか?」

 藤が問い返してしまうのも仕方がないほど、若と彼女の間には歴然とした実力の差があった。そのことは若自身にも解っていたが、彼は悠然と頷き返す。

「私が勝ったら、そなたに触れることを許して欲しい」

「何を仰います。人間が化生を食むなど、聞いた例がございません」

 呆れたように言う藤の口元には仄かな笑みが上っていた。それは好ましいという柔らかな感情からくるものではなく、冷然とした嘲りからくる哀れみである。その全てを承知した上で、若は虚勢を張った。

「そなたが勝てばよいのだ」

 若が口調が挑発的だったため、それまで呆れかえっていた藤もすっと目を細めて表情を消し去る。

「それでは、わたくしからも条件をつけさせていただきます。勝負とはそういうものですわね、若?」

「聞こう」

「はい。わたくしが勝ちましたらもう二度と、お呼びにならないでください」

 藤の申し出は常人であれば躊躇しそうな代物だったが、若はすぐに彼女の条件を受け入れた。勝負に勝てるという自信があったわけではない。ただ贄としてしか生きられない彼は失うことに慣れていたのだ。

「それでは、参ります」

 この一局を互いが勝負と認めたところで、藤は一礼してから碁笥に指を沈めた。藤の一手目は、右上隅小目へのカカリ。通常は隅に布石を打つことから始めるものなので、彼女は序盤から戦いを仕掛けてきたことになる。

(……カカリか)

 腕を組んでしばし考えを巡らせた末、若は右上の攻防には手を抜いて他の隅への布石を優先させることにした。しかし藤は、若の着手にことごとく噛み付いてくる。序盤から積極的に戦いを仕掛けてくる彼女はやはり、早々の決着を望んでいるようだった。藤がその気ならばと、若は右上の攻防に手をつけることにした。一隅から始まった戦いはやがて盤全体に広がり、形勢は白有利。藤の力量を持ってすれば若をねじ伏せることなど容易く、勝負は決まったかに思われた。だが終盤になって双方が予期せぬ事態が発生したため、若も藤も動きを止めて盤面に見入る。

「三コウか」

 相手の石を取ることによって着手禁止の場所に石を打ち込める形をコウという。コウ自体は珍しいものではないが、三コウは稀有な出来事である。長久の歳月を生きる藤でさえ驚愕に目を見開き、石を持つ気になれない様子だった。

「……何か、もの珍しいことが起こるやもしれません」

 食い入るように見つめていた盤面から視線を外した藤は独白を零し、裾を払って立ち上がると広廂(ひろげさし)へ下りて行った。そのまま簀子(すのこ)まで下った彼女が高欄(こうらん)に指をかけて天を仰いだので、若もゆっくりと後を追う。どちらから言い出さずとも無勝負とすることは、若も藤もすでに心得ていた。

 互いの想いを賭けて闘った一局がよりにもよって三コウという形で無勝負となったことに、若は因縁のようなものを感じずにはいられなかった。勝負の行方も想いの行方も、全ては時の運ということなのかもしれない。それならばと、若は静かに口唇を開いた。




 藤波の 咲く春の野に 延ふ(くず)

 下よし恋ひば 久しくもあらむ




 若がこの時を選んで口にしたのは万葉集に収められている読み人知らずの相聞(そうもん)である。密かな恋の歌に、高欄にかかっていた藤の細い指がぴくりと揺れ動いた。

「若、お戯れは……」

 咎めるような表情で振り向いた藤の言葉を、若はもう聞いていなかった。藤の細い腕を引き、そのまま彼女の肩口を抱き寄せた若は半ば奪うように口唇を重ねる。瞠目していた藤も執拗なまでに繰り返される甘い口づけに次第に酔っていき、やがて彼女は贄の糧となるべく瞼を下ろして身を委ねた。この夜の営みを他の化生に目撃されていたかどうかは、定かではない。








 夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。






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