ウィルの転移魔法によって葵が連れて行かれたのは保健室でもなく、まったく見覚えのないどこかの部屋だった。室内にはキングサイズのベッドが一つ置かれていて調度品も整えられていることから、誰かが私室として使用している部屋だと思われる。青系の色彩で統一された部屋にはどことなく安息感が漂っていて、ベッドに下ろされた葵は人心地ついたような気になった。
「ごめんね。ありがと、オリヴァー」
オリヴァーに礼を言った後、葵は自分の醜態を思い返して苦笑いを浮かべたくなった。だがキリルに殴られた頬がさっそく腫れ始めていて、唇を引くことさえ痛みを感じたので無表情に戻る。葵の代わりに苦笑したオリヴァーはそのままウィルに視線を移した。
「で、何で俺の部屋なわけ?」
「魔法書を開いたら目に入ったから」
転移の魔法は通常、特定の魔法陣間で行われる。例えばトリニスタン魔法学園から家に帰りたい時は、学園の正門に描かれた魔法陣の上に立ち、生徒それぞれの家に描かれた魔法陣へと飛ぶのだ。移動先は個々の魔法陣を知っていることが大前提であり、普通は各々が所持している魔法書に転移の呪文と共に様々な魔法陣が記されている。マジスターほどの実力者ともなると転移を行う際の魔法陣は必要としないことが多いが、この辺りもケースバイケースである。だがそんな事情を知らない葵はオリヴァーとウィルの会話についていけず、むしろ別のことが気になっていた。
「ここ、オリヴァーの部屋なんだ?」
「そう。くつろいでいいよ」
葵に応えたのは部屋の主ではなく、ウィルだった。葵は笑おうとしたのだが、再び頬の痛みに邪魔されて真顔に戻る。それを見たオリヴァーがある行動を起こした。
「拳大の氷。と、アン・タオル、イシィ」
オリヴァーが発したのは
「頬、冷やしとけよ。何もしないよりはマシだと思うぜ」
「あ、うん。ありがとう」
オリヴァーから渡された氷嚢を、葵はさっそく頬に当ててみた。しかし熱が引いていく心地良さよりも痛みの方が勝り、葵はおもむろに顔をしかめる。葵が悶えている間にオリヴァーはお茶の準備を始め、ウィルは手にしていた魔法書を開いた。
「じゃあ、僕は行くから」
「はいよ」
唐突に別れを告げたウィルを引き止めるでもなく、オリヴァーはあっさりと手を振って見せた。再び転移の魔法を発動させたウィルは光に包まれ、一瞬後には姿を消す。静かになった室内で紅茶を勧められた葵は眉根を寄せながらオリヴァーを仰いだ。葵の問いたいことなどお見通しの様子で、オリヴァーはゆっくりと口を開く。
「どうせすぐ戻って来るから、ウィルのことは気にするな」
「あ、うん」
「ウィルが戻って来る前に、少しだけ俺の話を聞いてくれないか?」
「別に、いいけど……」
改まって話と言われると警戒せずにはいられなかったが、ここまで良くしてもらっておいて拒否するわけにもいかない。そう思った葵はティーカップから手を引いて話を聞く態勢を整えた。オリヴァーはベッドの脇に立ったままカップを口に運び、それをソーサーに戻してから本題を口にする。
「女の子殴るなんてサイテーだけどさ、キルがアオイに腹を立てたのには理由があるんだよ」
「……ステラのことでしょ?」
「なんだ、知ってたのか」
「あいつが喚いてたから」
「そっか」
ふうと嘆息し、オリヴァーは少し距離を置いて葵の隣に腰かける。ベッドのスプリングと共に自分の心も軋んだような気がした葵は体を硬くしながらオリヴァーの次の言葉を待った。しかしオリヴァーには特に咎めようとしている様子もなく、彼は淡々と言葉を重ねる。
「キルにとってさ、ステラは特別なんだ。他の誰がどんなに苦しんでようが無関心でも、ステラのこととなると見てらんないんだろうな」
「……それって、ステラが好きだってこと?」
「恋愛対象としての『好き』じゃないけどな。キルにとって俺たちは特別なんだよ。まあ、俺たちにとっても特別に違いないけど」
キリルもオリヴァーも『仲間』としてステラを愛している。それはおそらく、ウィルも同じなのだろう。ハルだけが仲間という枠組みを超え、一人の女性としてステラを愛してしまった。現状に至るまでにはそれなりの出来事があったのだろうが、それは葵の知らない過去の話である。
「やっぱり、ステラのこと避けてたのか?」
率直に問われると答えにくく、葵は口を噤んだままオリヴァーの顔色を窺った。葵の不安を感じ取ったらしいオリヴァーは顔の前で軽く手を振って見せる。
「言っとくけど、俺は責めようとか思ってないから。ステラが可哀想だとは思ってるけど」
責める気はなくともオリヴァーの科白は十分な皮肉であり、葵は小さく息をついた。
「ステラ、そんなに落ち込んでた?」
「まあ、それなりに」
「そうだよねぇ」
理由も分からず約束をすっぽかされ、その後もとことん避けられていれば誰でも傷つくだろう。改めて自分の行動を思い返した時、葵は罪悪感にうちひしがれた。
「何でステラのこと避けてるのか知らないけどさ、会ってやれよ。もう、しばらく会えなくなるんだから」
「……え?」
自分の思考に沈んでいた葵はオリヴァーの一言を受けて顔を上げた。だが葵が問いを口にする前に室内が光で満たされる。一瞬の発光が収まると、室内の片隅にはウィルとステラが出現していた。
「アオイ……!」
姿を見せるなり、ステラは一目散に葵の前へと寄って来た。タオルを頬に当てている葵の顔を見てステラは青褪めながら頭を垂れる。
「ごめんなさい、アオイ。私のせいで……」
「ステラは悪くないよ」
焦った葵はタオルを取り落とし、慌ててステラの肩を掴んだ。葵に促され、ステラはゆっくりと面を上げる。久しぶりにステラの顔を見た時、葵は改めてすまないことをしたと思った。
「約束、すっぽかしてごめん」
一緒にパーティーへ行くという約束をすっぽかしたために顔を合わせづらくなったのだということを、葵はステラを避けていた理由として説明した。嘘をつく心苦しさはあるものの、ステラがハルと恋人同士になったのであれば本当の理由を言うわけにはいかない。葵自身は苦しい言い訳だと思ったが、ステラは小さく首を振って見せた。
「そのことだったら、もういいの。アオイに会えて良かった」
「ステラ……」
ステラの寛大さに葵は複雑な気持ちになった。しかしステラが『会えて良かった』と言ったのは、どうも和解だけが要因ではなさそうだった。
「私ね、王都の本校へ行くことにしたの。
ステラは決意を秘めた静かな声音で語ったが、それが何を意味するのか葵には分からなかった。ただ先程オリヴァーが『しばらく会えなくなる』と言っていたので、転校するのかなと思った程度である。しかし事は、そんなに単純なものではないようだった。
「アオイって案外淡白なんだね」
「キルは駄々っ子みたいに反対だって騒いでたし、ハルは放心してたのにな」
携帯電話という便利なものが普及している世界に生きていた葵にとって、距離が離れるということは別れを意味するものではなかった。ましてやこの世界には転移の魔法という、携帯電話を超える便利なものまで存在するのだ。葵自身は魔法を使えないがステラにこっちへ来てもらうことは出来るし、アルヴァに頼めば王都へ連れて行ってもらうことも出来るだろう。だがウィルとオリヴァーの会話は、葵のそうした考えを否定するものだった。
「えっ、だって……会おうと思えば会えるんじゃないの?」
「もしかしてアオイ、本校がどういう所なのか全然知らないの?」
葵が頷くと、問いを投げかけたウィルは信じられないといった表情をした。ウィルと同様に、オリヴァーやステラまでもが驚いているようである。まずいことを口走ったと察した葵は口を噤んだのだが、結局はウィルが『本校の特殊性』についての説明を始めたのだった。
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