手元に浮かばせた明かりを頼りに時計塔の階段を下りながら、葵は空いている片手でしきりに顔を拭っていた。頬に当てていたガーゼが涙に濡れて気持ちが悪く、葵は思い切ってそれをひっぺがす。ゴミとなってしまったガーゼを暗闇に放り投げ、葵はもう一度涙を拭ってから塔の出入り口へと向かった。
(バカみたい、私……)
ハルにここにいて欲しいという思いと、ステラを悲しませたくないという思いとがごっちゃになって、もう自分が何のために泣いているのかすら分からなかった。それでも不思議と、惨めな気持ちはカケラもない。それはきっとハルに傷ついた表情をされるくらいならステラと幸せになってもらいたいと思っているからだと思い、葵は自分が悲しくなった。
(何なのよぉ、もう。早く元の世界に帰りたい)
この世界には失恋した時、慰めてくれる友達もいない。ハルの好きな人がステラでなければ彼女に相談出来たかもしれないが、今回は無理である。いくら呼んでも届かない友人の名を胸中で連呼しながら、葵はドアノブに手をかけた。しかしいくら押しても、扉はびくともしない。
(あ、あれ? 引くんだったっけ?)
試しに引いてみたものの、扉は動かなかった。もう一度押してみても、やはり開かない。パニックに陥った葵は頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。
(えっと、これは、つまり……)
この扉が開かないということは、転移の魔法が使えない葵にとっては一大事である。二階部分に空いている空洞の他は、塔の出入り口はここしかないからだ。
(ウソ、ほんとに?)
焦った葵は扉に取り縋り、何とか開けようと試みた。しかし最後の手段で体当たりをしても、扉は動かない。血の気が引いた葵は先程まで話をしていた者の顔を思い浮かべ、急いで階段を逆戻りした。
(お願い、まだいて!)
転移魔法を使えるハルは、もう姿を消してしまっているかもしれない。しかしハルがいなければ、葵に残された道は二択である。二階部分に大きく開いている穴から飛び降りるか、それとも助けが来るのを延々と待つか。どっちも嫌だと思った葵は息を弾ませながら全速力で階段を駆け上った。
言葉も発せなくなるほど息を切らせた葵が二階に辿り着いた時、ハルの姿はまだそこにあった。彼は大きく開いた空洞の前に佇み、そこから差し込む月明かりを浴びている。ホッとした途端に気持ちが緩んでしまい、葵はその場でへたりこんだ。
「……あんたもか」
その場で振り向いたハルは葵の呼吸が整うのを待ってから口火を切った。だが彼から発されたのは不可解な言葉であり、葵は眉根を寄せる。
「私もって……何が?」
「出られない」
葵に答えると、ハルは何もない空中に向かって腕を差し伸べた。だがハルの手は、まるで壁に突くような形で静止する。慌ててハルの傍へ寄った葵は自分でも腕を伸ばしてみたが、それはハルと同じく何もない空間で止められてしまった。
「何、これ」
「障壁で覆われてる。こんな魔法見たことないけど」
「これ、魔法なの?」
驚いた葵はハルを振り向いたが、彼はまだ穴の向こう側を見つめていた。顎に手を当てて目を細めたハルは、そのままの姿勢で言葉を紡ぐ。
「目を凝らすと魔力の波動が見える。でも誰の魔力なのかまでは分からない」
「えーっ……下のドアも開かなかったよ」
「それなら、塔全体を覆ってるんだな」
そこで不意に眉間の皺を解いたハルは壁際に向かって歩き出した。特に焦っているような様子もなく、彼はそのまま壁に背を預けて座り込む。腰を落ち着けてしまったハルを見て不安を煽られた葵は急いで彼の傍に寄った。
「転移魔法で出られないの?」
「試してみたけどダメだった。誰がやってるんだか知らないけど、こんな大掛かりな魔法はいつまでも持たないから、朝になれば出られるよ」
ハルは何でもないことのように言ってのけたが葵は絶句した。しかし呆けている葵に構うことなく、ハルは何かの呪文を唱え出す。葵が我に返ったのは、ハルが五次元からバイオリンを取り出して後のことだった。
「召喚は出来るんだ? だとしたら本当に、閉じ込めただけなんだな」
手元のバイオリンに視線を落としながら独白した後、ハルはバイオリンを構え直した。弓が弦に添えられて、ハルの指先からメロディが零れ落ちる。そうして始まった曲は、カノンだった。
ハルの傍らに立ち尽くしていた葵は脱力するように膝を折り、その場に腰を下ろした。独奏のカノンは追いかけてきてくれる音色を待つように悲しく、寂しく響き渡る。彼がこの場所でカノンを奏でていたのはステラを待っていたからなのではないかと、葵はふと思った。
「……この場所さ、」
演奏を終えたハルはバイオリンを下ろすと静かに言葉を紡いだ。ハルに見とれていた葵は我に返り、彼と並んで壁に背を預けながら話に耳を傾ける。葵の呼吸に合わせるように、ハルはゆっくりと続きを口にした。
「あんたがどういうつもりでここに来てたのか知らないけど、ここは俺たちの練習場なんだ。穴開いてるけど広さもあるし、ちゃんと反響するし」
「……そうだったんだ」
「ここでよく、皆で音合わせやってたんだよ。ステラが本校に短期留学するまでは」
片膝を抱いたハルは遠い目をしながら、葵の知らない昔のことを語り出した。葵がトリニスタン魔法学園に編入した時、ステラがいなかったのは彼女が留学中だったからである。彼女が短期とはいえ本校に行くと決めた時からこうなることは決まっていたのかもしれないと、ハルは寂しげに零した。
「でも俺、ステラのそういうところが好きなんだ。だったら、仕方ないよな」
その『仕方ない』が何を意味するのか、葵にはもう尋ねることが出来なかった。返す言葉も見当たらず、葵は両膝を腕で抱く。膝に顔を埋めているとハルの声が頭上から降ってきた。
「眠い? 寝る?」
「えっ」
ハルの発言に耳を疑った葵は焦って顔を上げた。すると先程よりハルの顔が近くにあり、葵は硬直する。ハルは何かに気がついたような素振りを見せ、葵の頬に手を伸ばした。
「腫れてるな」
思いがけない奇襲に遭い、葵は息をするのも忘れるほど真っ白になってしまった。それまで意識していなかった頬の熱が、沸騰するように温度を上げていく。ハルの手を払い除けることも出来なかった葵は、体ごと側方に倒れこんだ。
「何、急に。大丈夫?」
淡白な反応を見せるハルに「あんたのせいだ」と胸中で呻きながら、葵はほふく前進に近い形で体を引きずりながら遠ざかった。ハルは葵の奇妙な行動に首を傾げながら立ち上がる。手にしていたバイオリンを五次元にしまった彼は、今度は五次元からベッドを引きずり出した。ベッドが落ちてきた衝撃と一瞬の突風に何事かと立ち上がった葵は、突如として室内に出現したベッドを目にして呆然と立ち尽くす。
「あの……これは、一体?」
ベッドを指差しながら、葵は恐る恐るハルの顔色を窺った。対するハルは眉一つ動かさず、至って平静に答える。
「眠いんでしょ? 寝ようよ」
俺も眠くなってきたと言いながら、ハルはさっさとベッドに歩み寄った。絶句した葵がいつまでも動けないでいると、豪奢なベッドに腰掛けたハルが顔を傾けてくる。
「早く来なよ」
「っ、無理むり!!」
「キングサイズだから落ちたりしないよ」
我に返って慌てて声を張り上げた葵をよそに、ハルはあくびをしながらベッドの中へもぐっていった。そういう問題じゃないと胸中で呟いた葵は肩を落としながらベッドから遠ざかる。無駄に広い空間の隅っこで壁に寄り添った葵は「ここでいい」とハルに告げ、膝を抱えて涙に暮れながら夜を明かしたのだった。
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