Love is Game

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 夏の盛りである橙黄とうこうの月の四日。その日も夏の夜は穏やかに明け、豪奢な飾り窓から差し込む光が大理石の床に複雑な影絵を映し出していた。朝露を浴びた緑に包まれた屋敷は清々しい空気に浸されており、少しだけ開いた窓から吹き込む微風が薄手のカーテンを揺らしている。そんな爽やかな朝、一人用にしては大きすぎるキングサイズのベッドの中で、宮島葵はカッと目を見開いた。

(全然寝られなかった……)

 昨夜は別段寝苦しい夜でもなかったのだが幾度となく寝返りを打っているうちに夜が明けてしまい、ついには一睡も出来なかったのだ。目の下に隈をつくった葵は寝不足で朦朧とする頭を押さえ、仕方なく体を起こす。フラフラしているのは頭だけでなく、靴を履いた足までもが前後不覚に陥っていた。体が重いのも頭が働かないのも、全ては一人の少年のせいである。未だ鮮明に焼きついている端整な顔を何とかして打ち消そうと、葵は大きく頭を振った。

(訳わかんない)

 何故、好きでもない相手とキスをしなければならなかったのか。しかもセカンドキスの相手は、葵のことを目の敵にしているような奴だったのである。殴られることはあってもキスをされることになるとは、思いもよらなかったのだ。

(……ダメだ、頭痛い)

 寝不足も手伝って頭痛がしてきた葵は考えることを放棄し、再びベッドで横になろうと思った。しかしベッドに辿り着く前に朝の挨拶と共にメイドのクレア=ブルームフィールドが姿を現したので、葵はその場で足を止める。

「どうされました、お嬢様?」

 葵と目が合うなり顔色が悪いと言い、クレアは微かに眉根を寄せた。葵は渇いた笑みを浮かべながら小さく手を振って見せる。

「寝不足なだけだから。気にしないで」

「左様でございますか。では朝食をお持ちいたしますので、本日はお部屋でお召し上がり下さい」

 手際よくモーニングティーを淹れるとテーブルの上にあった昨夜のティーカップを片付け、クレアは部屋を出て行った。普段ならモーニングティーを含みながら身支度をするところなのだが、どうにも体が重かった葵はベッドに腰を落ち着けながら紅茶を口に運ぶ。

(だるい……眠い……)

 薫り高い紅茶は体と頭に心地好く、葵を眠りへと誘った。だがウトウトしているうちに熱い紅茶を零しそうになり、一気に目が覚めた葵は慌てて体勢を立て直す。そこへ朝食の乗ったワゴンを押してクレアが姿を現したので、葵はベッドから立ち上がってテーブルにティーカップを置いた。

「お嬢様、本日は学園へ行かれるのですか?」

 葵の醜態をしっかり目撃していたクレアは、むしろ『行くな』と言わんばかりの調子で問いかけてきた。もともと学校へ行くことに乗り気ではない葵は、少し考えた末に小さく首を振ってみせる。

「今日はいいや」

「では、本日はゆっくりとお休みください」

 窓際のテーブルに朝食の準備を整えると、クレアは「また後で参ります」と言い置いて姿を消した。ネグリジェ姿のまま一人で食卓についた葵はサラダやパンを口に運び、適量な朝食を食べ終えてからナイフとフォークを置く。席を立った葵は私物の鞄から携帯電話を取り出し、ベッドに戻りがてら電源をオンにした。

(……やっぱり好きだなぁ、加藤大輝)

 携帯電話のディスプレイに表示された黒髪の少年の姿を見るなり、葵は口元をにやつかせた。葵が携帯電話の待ち受けにしている少年は名を加藤大輝といい、彼は葵の最も愛する芸能人である。

(今なら寝れるかも)

 最愛の人の顔を見たおかげで気分が変わったので、葵は二つ折りの携帯電話を閉じながらベッドに背中を預けてみた。キングサイズのベッドは極上の柔らかさでもって、横たわる人を眠りへと誘おうとする。しかし瞼をおろした闇の中に突如としてキリル=エクランドの顔が浮かんできてしまい、葵はカッと開眼した。

(……ダメじゃん。なんか今寝ると、またろくでもない夢みそう)

 何か気が紛れるようなことがしたいと思った葵は体を起こしながら考えを巡らせた。寝不足で鈍っている思考はなかなか妙案を生み出してくれなかったが、やがてあることを思いついた葵はベッドを下りる。学園には行かないがいつもの制服に着替え、葵は身支度を整えてから寝室を後にした。

(そういえばクレアって、どこの部屋使ってるんだろう)

 住み込みで働いている以上はどこかの空き部屋を私室としているはずだが、葵は彼女のことについてほとんど何も知らなかった。呼び鈴ベルを鳴らせばクレアの方からすぐに来てくれるのだが、いつもそれでは申し訳ない。そう思った葵はだだっ広い屋敷の中を、クレアを探してウロウロと歩き回った。

「お嬢様?」

 背後から声がかかったので振り向くと、そこには掃除用具を手にしたクレアの姿があった。掃除まで魔法に頼らずやっているのかと驚きながら、葵は元来た廊下を引き返してクレアの傍へ寄る。

「掃除まで魔法使わずにやってるの?」

「魔法では細かな隅にまでは対応出来ませんので、そうした所だけを手作業でやっております。それより、どうされたのですか?」

「あ、そうそう。忙しいところ悪いんだけど、お菓子の作り方教えてくれない?」

 以前にも夕食をご馳走になったお返しをしたいという話はしてあったので、葵が料理をしたいと言い出してもクレアは別段驚いたような変化は見せなかった。しかし、彼女は微かに眉根を寄せる。

「それは構いませんが、お休みにならなくてよろしいのですか?」

「ちょっと気晴らししたいなぁと思って。それに、今から寝ると夜に寝られなくなりそうだし」

 葵の返事を聞いたクレアは、そういうことならばと頷いた。掃除道具を片付けてくると言うクレアといったん別れて、葵は先に一階の片隅にある調理場へと向かう。調理場は食堂の脇にあるのだが足を踏み入れるのは初めてのことであり、葵は広々とした眺めに驚いてしまった。

(うちのキッチンとすごい違い)

 特別裕福でも貧しくもない日本の一般的な家庭に育った葵の家のキッチンは、目を引くほど広くも狭くもなかった。調理道具や茶碗などが所狭しと置かれている葵の家のキッチンが『台所』ならば、ここは厨房さながらの造りである。元いた世界で通っていた学校の家庭科室が一番近い眺めだが、銀細工のナイフやフォークなどが並ぶこの屋敷の厨房はそれよりももう少し気品があった。

「お嬢様、お待たせいたしました」

 厨房を見学しているうちにクレアが現れて、葵はまずフリルつきの可愛らしいエプロンを手渡された。高等学校の制服の上にエプロンを着用した葵はますます調理実習のようだと思い、懐かしさを覚えながら照れ笑いをする。

「よくお似合いですよ」

「あ、ありがと。これ、クレアのエプロン?」

「新品をご用意する暇がなかったものですから。わたくしが普段使っているものですが、シミなどはついておりませんのでご安心下さい」

 そんなの気にしなくていいのにと、葵は苦笑いを零した。葵が微笑んだ理由が分からなかったようでクレアは首を傾げたが、その話題には言及せずに彼女はさっそく本題を口にする。

「何を作りますか?」

「う〜ん、ケーキがいいかな」

「かしこまりました」

 作るものが決まるとクレアは厨房の中を歩き回り、材料や器具などを取り出してきた。その様子が勝手知ったる場所という感じだったので、葵は尊敬の念を込めながらてきぱきと動き回るクレアを目で追う。

(そういえばお母さんも、何がどこにあるのかよく知ってたなぁ)

 台所で探し物をしていると、葵の母親は彼女が見つけられなかったものをすぐに取り出してくるのだ。そんな些細な日常風景を思い返してしまった葵は少し感傷的になりながら調理を開始する。しかし郷愁の気持ちは手作業で作る料理の楽しさの前に薄れていき、葵はいつしかケーキ作りに没頭してしまったのだった。






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