クレアに連行された葵が久しぶりにトリニスタン魔法学園の敷居を跨いだ時、まだ校内は早朝の静けさを保っていた。この世界には時計というものが存在しないため正確な時間は分からないが、どうやらまだ生徒達が登校してくるような時間帯ではないらしい。葵はクレアと口論をしながら校内を引きずられてきたので、目立ちたくないと思っている彼女にとっては人気がないことだけが不幸中の幸いだった。しかし今の葵には、小さな幸運に気付く余裕すらない。ついに、保健室に辿り着いてしまったからだ。
「ここやな。ったく、おたくがはよ口割らんから無駄に遠回りしたやないか」
葵の元でメイドとして働いていた時、クレアは幾度も葵を迎えに学園へとやって来たことがある。しかしそれは裏門付近にある魔法陣までで、彼女が校内へと足を踏み入れたのは今日が初めてのことだった。葵が頑として保健室の場所を教えなかったため、彼女達はエントランスホールからぐるりと校舎の一階を回ってきたのだ。そのためクレアは不機嫌そうに葵を睨んだのだが、葵としても譲れない事情というものがある。どうしても保健室の主に会うのが嫌だった葵はこの期に及んでもなお、抵抗を続けた。
「嫌だってば!!」
「そんなに嫌ならおたくは口開かんでええ。うちが丸く治めてやるさかい、行くで」
初めから葵の意思など完全に無視しているクレアは、そう言うと保健室の扉に手をかけようとした。その扉が開かれるのを何としてでも防ぎたかった葵はクレアの手を振り払おうという動作をやめ、今度は逆に彼女の手をしっかりと掴む。そして力任せに後ろへと引っ張った。触りかけていた取っ手から手が離れてしまったクレアは、勢い余って後方へ数歩よろける。体勢を立て直した後、彼女は葵に鋭い視線を向けてきた。
「何すんのや!!」
「行かないったら行かない!!」
「あー、うっさい! いつまでもダダこねてるんやない!」
葵の強情さに痺れを切らしたらしいクレアは仁王立ちになり、肩口に乗せているマトへと手を伸ばした。
「マト、変態や!」
目を向けることもなく、クレアはマトに指示を出した。するとマトの体が発光し、彼は光の塊となりながら形を変えていく。
「ええ判断や。次は何をすればええか、分かっとるな?」
実力行使で脅されると、無力な葵には頷く他に術がない。コクコクと何度も頷いて見せた葵はクレアの指示に従って、自ら扉の前に立った。その間もクレアは武器と化したマトを葵に向けたままであり、緊張感を崩そうとしない。
「妙な動きしたら血ぃ見るで」
駄目押しの脅迫が背中から聞こえてきたので、葵は仕方なくスカートのポケットに手を伸ばそうとした。そこでふと、ある考えが脳裏をよぎる。
(そっか、カギ使わないで開ければいいんだ)
葵が顔を合わせたくないと思っている相手は保健室に酷似した『部屋』にいる。そこへ行くためには保健室の扉に鍵を差し込まなければならず、その作業をしなければ扉を開けたところで目前に現れるのは『保健室』なのだ。クレアがそのことを知っているかどうかは微妙なところだが、妙案を思いついた葵は鍵を使わずに保健室の扉を開けてみた。それでも、妙な動きをしたら刺すと言っていたクレアは特に反応を示さない。緊張していた葵はホッとして、自ら保健室の中へと歩を進めた。
トリニスタン魔法学園アステルダム分校の保健室には普段、ずんぐりむっくりな体型をしたウサギが常駐している。そのことを知っている葵はウサギが出迎えてくれるだろうと思っていたのだが、その予測は見事に裏切られた。ウサギの姿はどこにもなく、代わりに鮮やかな金髪にブルーの瞳が印象的な青年が保健室の中に佇んでいたからだ。白衣を着用している彼の名は、アルヴァ=アロースミス。アステルダム分校の校医であるアルヴァは、葵が今もっとも会いたくないと思っていた人物その人だった。
「レイチェル様……?」
葵はアルヴァと目が合うなり顔をしかめたのだが、彼女の背後でははまた違った反応が生じていた。独白を零したクレアを振り返ってみると、彼女は何故か茫然としている。とっさに「チャンスだ」と思った葵は、武器を構えたままでいるクレアの射程からさりげなく逃げ出した。
「姉をご存知なのですか?」
クレアが口にしたレイチェルとはアルヴァの姉の名前である。クレアがそれきり言葉を次がなかったため、アルヴァが率先して沈黙を破った。それまで呆けた顔でアルヴァを見つめていたクレアはハッとしたような表情になり、構えていた武器を下ろして頭も下げる。
「わたくしはユアン=S=フロックハート様にお仕えしております、クレア=ブルームフィールドと申します」
「そうですか。フロックハート家の皆様には姉がお世話になっています。僕の名はアルヴァ=アロースミス。以後、お見知りおき下さい」
クレアの自己紹介に対し、アルヴァも頭を下げることで返礼とした。初対面の挨拶を終えた二人は、その後もお互いに猫をかぶった口調で話を続けている。
「ところで、ブルームフィールドさん。その手にしているモノは何ですか?」
「あ、失礼いたしました」
アルヴァに指摘されたことで慌て出したクレアは、すぐにマトの変態を解いた。武器からワニのような
「話には聞いていましたが、魔法生物の
「この子はわたくしのパートナーで、名をマトと申します。どうぞお見知りおきください」
「ブルームフィールドさん、フッロクハート家にお仕えしているのでしたらすでにご存知かとは思いますが、アロースミスの者は貴族ではありません。僕にまで改まった言葉遣いをされなくてもけっこうですよ」
「存じております。ですが、その、アルヴァ様はレイチェル様の弟君ですから……」
歯切れが悪いままに言葉を途切れさせ、クレアはそのまま閉口する。何か、もじもじしている風のクレアを見据えているアルヴァはそこでふっと笑みを浮かべて見せた。
「では、こうしましょう。僕は貴女のことをクレアさんと呼ばせていただきます。ですからクレアさんも、僕のことはアルと呼んでください」
大抵の者がそう呼んでいるからと、アルヴァは駄目押しのような科白を後に続けた。刹那、クレアが頬を赤らめながら顔を伏せる。アルヴァを直視することも出来ずに小さく頷いている彼女は、まるで借りてきた猫だ。先程から完全に部外者扱いされている葵は冷ややかな目で彼らを一瞥した後、視線を外した。
(どこからか出られないかな)
蚊帳の外に置かれっぱなしの葵は保健室に入って来てからずっと脱出路を探しているのだが、クレアが扉のところに陣取っているため逃げ道がない。保健室の奥にも扉があるのだが、あれはおそらく外部には通じていないだろう。残る選択肢は窓から逃げるというものだが、そこまで大袈裟に脱走してしまうと後々面倒なことになりそうだ。
(……もういいや。ふつうにドアから帰ろう)
考えることにもうんざりしてしまった葵は腹を決めて歩き出そうとした。だが、まるでそのタイミングを狙っていたかのように、アルヴァがふと顔を傾けてくる。視線を感じて振り向いた葵は物言いたげなアルヴァの瞳に射抜かれ、再び動きを止めてしまった。
「クレアさんは確か、生徒ではありませんでしたよね? 制服を着ているところを見ると、編入されるのですか?」
「はい。本日からアステルダム分校に通わせていただけることになりました」
「では、今日が初日ですね。色々と手続きが必要だと思いますので、早めに職員室へ行っておくことをお勧めします」
「ご助言、ありがとうございます。さっそく職員室へ行ってみます」
アルヴァに笑顔で別れを告げるとクレアは踵を返して歩き出した。保健室の片隅に佇んでいる葵のことなどもう眼中にないようで、彼女はさっさと廊下から扉を閉ざす。とうとう立ち去る機会を逸してしまった葵は仕方なく、嫌な表情を作りながらアルヴァへと顔を傾けた。
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