帰ってきた日常

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 入浴を済ませて風呂場の扉を開けると、雨は上がっていた。雨上がりの空にはまだ厚い雲が垂れ込めているものの、雲の切れ間からは筋状の光が幾つも注いでいる。いつか物語の挿絵で見た『天使が舞い降りてきそうな空』だと思った葵は足を止め、しばしその幻想的な光景に見入ってしまった。

 ひとしきり美観を堪能した後、葵は外階段を上ってアパートの二階へと上がった。いったん私室である202号室に戻って洗濯物を置いた後、再び通路に出た葵は二階の隅へ向かって歩を進める。しかし葵が205号室の扉をノックする前に、反対側の一番端にある201号室の扉が内側から開かれた。

「クレア」

 201号室から出てきた人物に目を留めて、葵は驚きの声を発した。葵の声に反応して顔を傾けてきたクレアは201号室の扉を閉ざしてから改めて歩み寄って来る。葵の傍まで来ると、クレアは腰に手を当てながら嘆息した。

「やっぱりここやったか」

「もしかして、探しに来てくれたの?」

「今日は仕事があるさかい、昼の休みで早退してきたんや」

 誰がおたくのために授業をふいにするかと、クレアは心無い科白を平然と言ってのける。心配してくれたのかと勘違いしてしまった葵は少し悲しい苦笑いを浮かべた。

 廊下での話し声が耳についたのか、不意に205号室の扉が開いてアッシュが顔を覗かせた。クレアからアッシュに視線を移した葵は、ひとまず風呂の礼を彼に伝える。アッシュは微笑みでもって葵に応えた後、クレアに不思議そうな視線を向けた。しかしアッシュが何かを口にするより先に、クレアの方が口火を切る。

「今から昼にするんやけど、アッシュもどうや?」

「朝の残りが食堂にあるから、何か一品作ってよ。マッドとレインも連れて行くから二人は先に行ってな」

「りょーかいや。お嬢、行くで」

「あ、うん」

 アッシュとの話を終えたクレアがさっさと歩き出したので、葵は大人しく彼女の後に従った。少し先を行くクレアは振り返りもせずに話を続ける。

「その、風呂にでも入った後みたいな格好はなんや?」

「走ったら汗かいちゃったから。アッシュに沸かしてもらってお風呂に入ったの」

「真昼間から入浴かい。優雅なこっちゃな」

 その辺りの感覚がまだ『お嬢様』なのだと、クレアは厳しい調子で指摘する。だが彼女はその話題を長引かせることはせず、外階段を下りた辺りで口調を改めた。

「マジスターっちゅうのはえらい人気者みたいやな」

「そう、だね……」

 クレアが唐突にマジスターの話を持ち出してきたため、どう応えていいのか分からなかった葵は曖昧に相槌を打った。トリニスタン魔法学園に編入してまだ日の浅いクレアにもはっきりと分かってしまうほど、学園におけるマジスターの人気は高い。しかしそれは葵が芸能人に夢中になるのとは訳が違うのだ。マジスターが不動の人気を誇っているのはその麗しい見た目もさることながら、彼らの家柄に因る影響が大きい。葵はそれを良いことだとは思っていなかったので、クレアに返す言葉に困ってしまったのだった。

「ガキやな」

「……え?」

 考えに沈んでいた葵はクレアが発した言葉の意味を汲み取れず、首を傾げた。マジック・キーを使って食堂の扉を開けながら、クレアは大袈裟にため息をついてみせる。

「あないなガキんちょにキャーキャー言うてる女どもも、チヤホヤされて権力者気取っとるマジスターも、あの学園にはガキしかおらんのかいな。王立の名門校いう話やからもっと厳粛な場所やと思うてたのに、期待はずれもいいとこや」

 辛辣なクレアの言葉は、アステルダム分校の緩みきった気風を見事に表現したものだった。共感する部分も多かったため、クレアが背を向けているにもかかわらず思わず頷いてしまった葵は後に苦い笑みを浮かべる。彼女自身も一時は、芸能人のようなマジスターの外見に惹かれてミーハーに騒いでいたことがあるからだ。

「でもクレアだって、アルがカッコイイってキャーキャー言ってたじゃん」

「うちは大人のオトコが好きなんや!」

 鋭い眼光を向けてきたクレアは堂々と「一緒にするな」と言ってのける。だが好みの年齢層が違ったところでしょせんは同じ穴の狢。笑ったことで気が緩んでしまった葵は、ポロリと本音を口にした。

「マジスターがクレアの好みじゃなくて良かった」

「何でや?」

「紹介しろとか言われたら面倒だし、そういうのはうんざりなんだよね」

「そういえばおたく、バベッジ公爵のご子息と仲ええんやったな。キリル=エクランドとは仲悪いみたいやけど」

「別に、オリヴァーともそんなに仲良くないよ。って、何でキリルだけ呼び捨て?」

「あないなクソガキ、貴族の息子やからって敬意を払う必要もないわ! 使用人やからってうちをナメくさりおって!」

 突然激昂したクレアに面食らった葵は瞬きを繰り返した後、ある出来事を思い出して彼女の怒りに納得した。クレアは葵の元で使用人をしていた時にキリルと会ったことがある。その出会いというのが、怒りを抱くのも仕方がないくらい最悪なものだったのだ。

(あの時、実はそんなこと思ってたんだ……)

 使用人という立場の時のクレアはあまり感情を面に出さず、余計なことも口にしなかった。だがクールを装った裏では、実は腸が煮えくり返っていたらしい。そのギャップがおかしくて、葵は笑みが浮かんできた口元を手で覆い隠した。

「で、おたくは何であのガキんちょに追い回されてるんや?」

「私のことが気に食わないからじゃないかな」

「おたく、何かしたん?」

 キリルに何かをされたことはあれど、葵の方から何かをしたことは一度しかない。だがその一度の行為がキリルとの関係悪化を決定付けたものであることは間違いなく、葵は苦い思いで顔を歪めた。

「やっぱ、殴ったのがまずかったかなぁ」

「殴った!? エクランド公爵の息子をかい!」

 キリルを『殴った』ことに対してクレアが予想以上の驚きを示したので、その反応に驚いた葵はキッチンを振り返った。キッチンで作業をしていたクレアは手を止めると、カウンターを迂回して長机の側にいる葵の元へ歩み寄って来る。首を傾げている葵の腰の辺りを平手ではたくと、クレアは豪快な笑い声を上げた。

「おたく、意外と根性座っとるんやなぁ! 見直したで!」

「あ、ありがと……」

「ククク……あの鼻っ柱の強いガキんちょ、お嬢に殴られたんかい。ええ気味やわ」

 葵に殴られた時のキリルの顔を想像してなのか、クレアは一人で忍び笑いを零している。そうして誰かを殴ったことを褒められるのも複雑だと思った葵はクレアの底意地の悪い笑みに苦笑いを浮かべた。

「せやけどお嬢、おたく魔法に疎いのに大丈夫なん?」

 ひとしきり笑った後、クレアは真顔に戻って問いを重ねてきた。その表情が思いのほか真剣だったので、不安を感じた葵は眉根を寄せる。

「どういう意味?」

「どうもこうもないわ。あのガキんちょ、あれでもエクランド公爵家の一員やで?」

 油断していると丸焼きにされかねないと、クレアは真顔のまま語った。すでに丸焼きにされかかったことのある葵は頬を引きつらせ、それでもなんとか苦笑を作る。

「今は私を『殴る』ことしか頭にないみたいだし、たぶん大丈夫……だと思う」

 実際には大丈夫だと思いたいというのが本当のところだったが、葵は小さく首を振ることで嫌な想像を打ち消した。それに『殴られる』だけならば、今は対処のしようがあるのだ。

「何でだか知らないけどあいつ、私を殴ろうとすると土下座しちゃうんだよね」

 ある時を境に、キリルは何故か葵に危害を加えられなくなった。しかしそれは『殴ろうとする時』限定のようで、魔法を使う分には抑制力とはならないようだ。それはウィルが行った『実験』からも明らかになっているが、今のキリルは『葵をぶっ飛ばす』ということで頭がいっぱいなため、そのことを失念しているらしい。キリルの話をしているうちに恐ろしい体験を思い出してしまった葵はそのまま忘れていて欲しいと切に願ったのだが、葵の話を聞いたクレアは何故か不敵な笑みを浮かべた。

「あいつ、お嬢に頭が上がらんのかいな。そらええこと聞いたわ」

「……クレア?」

 嫌な予感を覚えた葵は独白の真意を確かめようと思ったのだが、言葉を重ねるより前にアッシュ達が食堂に姿を現したため、クレアはキッチンへと戻って行く。食事を終えるとすぐクレアは仕事に出掛けてしまったため、この時はけっきょく、彼女の真意が分からないままに終わってしまった。






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