午後は仕事へ出掛けるというクレアが姿を消した後、誰とも話さず黙々と食事を口に運んでいたマッドも早くに食事を切り上げて食堂を出て行った。残されたのは葵と、自分のペースでゆっくりと食事をしているレインと、すでに食事を終えているアッシュである。クレアの含みを持たせた言い方が気になって仕方がなかった葵はもう食事どころではなく、皿を空にすることのないままにフォークを置いた。
「もういいのか?」
「うん、ごちそうさま」
「作ったのはオレじゃないけどな」
そう言って微笑んで見せると、アッシュはテーブルに並んでいる空の皿を持って立ち上がった。まだ食事を続けているレインにゆっくり食べていていいと言い置いて、空の皿を持ったアッシュは流しへと向かう。片付けを手伝おうと思った葵も席を立ち、アッシュの後を追った。
「手伝う」
「学園は?」
「いいの」
アパートに帰ってきた当初は着替えをしたら戻るつもりだったものの、もう再び学園へ行こうという気は失せてしまっていた。何かしていた方が余計なことを気にしすぎないで済むと思った葵は半ば強引に手伝いを開始する。アッシュもそれ以上は注意しようとせず、二人は雑談をしながら片付けを進めていった。
「このアパルトマン、不思議だろう?」
アッシュがそんなことを言い出したのは、ワケアリ荘の生活様式がこの世界の一般とかけ離れているからだった。魔法が存在するこの世界では貴族だけでなく、一般家庭にも魔法が普及している。例えば紅茶を淹れるにしても、その作業を人間自身が行うことは稀である。何故なら呪文を一つ唱えるだけで、茶器が勝手に紅茶を淹れてくれるからだ。そんな風に魔法はかなり人々の生活に根付いているのだが、このアパートでは魔法を使うような場面に出会ったことがない。クレアは例外として、彼女以外の住人はまるで禁止されているのではないかと思うほど魔法を使わないのだ。もしかしたら『使えない』のかもしれないが、葵には別の理由があるように思えてならなかった。
「アッシュ、訊いてもいい?」
「オレに答えられることなら」
「あの火が出てくる台って、無属性魔法が刻まれてるの?」
葵が指差したのはキッチンにある、コンロのような調理器具である。この台の上で加熱調理を行うのだが、以前に住んでいた屋敷の厨房とは違い、ワケアリ荘のキッチンではツマミをひねるだけで火が出現する。これは魔法で火を熾すことが一般的なのだと解釈していた葵にとって、衝撃的な光景だった。あまりにも、魔法が存在しない故郷の生活様式に近すぎる。
「刻まれてない。あれは魔法じゃないからな」
その証拠に火を出すとき、呪文を唱えないだろうとアッシュは言う。葵達が皿洗いに使用している流しも蛇口をひねるだけで流水を生み出すものであり、これも理論は調理台と同じものだ。そこに魔法が絡んでいないという確証を得て、葵は目を輝かせた。
「じゃあ、これ。どうなってるの?」
葵が興味津々に蛇口をひねって水を止めると、アッシュはしばらく葵の手元を眺めたままでいた。そこへやって来たレインが「ごちそうさま」と小さく口にしながら空になった皿を差し出してくる。葵とアッシュの会話には興味がないようで、彼女は皿を渡すとすぐに踵を返してしまった。レインの小さな背中が扉の外へ消えるまで見送ってから、アッシュが再び口火を切る。
「片付けが終わったらいいものを見せてやるよ」
「うん」
アッシュの言う『いいもの』が何かは分からなかったが、その一言でやる気を出した葵は勢い込んで片付けを再開させた。せっせと皿を洗っている葵を見て笑みを浮かべたアッシュも再び手を動かし始める。昼食の片付けは程なくして終わり、アッシュと葵は連れ立って食堂を後にした。
「? 何してんの、アッシュ?」
食堂を出たところで動きを止めたアッシュが再び扉に向かっていたので、不思議に思った葵は小首を傾げた。葵の問いかけに含み笑いを返した後、アッシュは手にしていた鍵で扉を開ける。
アッシュが葵を誘ったのは食堂でも風呂場でもなく、室内に配線のようなものが蔓延っている異様な部屋だった。壁や床に張り巡らされている配線の先は室内の中央で収束していて、そこには自転車のような形状の二輪の乗り物が置かれている。魔法が存在するこの世界へ来てから初めて『機械』を目の当たりにした葵は絶句してしまった。
「驚いた?」
アッシュに問いかけられても、葵は驚きのあまり頷くことさえままならなかった。しかし間もなく、彼女の驚きは興奮へと変わっていく。何故なら葵には、この部屋に置かれている乗り物の用途が分かるような気がしたからだ。
「アッシュ! もしかしてこれ、こうやって使うもの!?」
アッシュを押し退けて勢い良く室内に飛び込んだ葵は、その勢いのまま室内の中央に置かれている乗り物に跨った。葵がペダルを漕ぎ出すと、アッシュは驚いたように目を丸くする。
「使い方、知っていたのか」
アッシュはどうやらクレアが先に見せてしまったのだと思ったようだったが、葵はもうアッシュの話を聞いていなかった。床に固定されている『自転車』は、移動のための乗り物ではない。さらに配線だらけの室内が葵の脳裏に懐かしい光景を浮かび上がらせた。
(やっぱり、CMのまんまだ)
いつだったか、休日に寝転がって観ていたテレビのコマーシャルで、葵はこの『自転車』とよく似たものを見かけたことがあった。それは屋内にあって、ペダルを漕ぐと豆電球が点灯するという代物だった。この『自転車』もそれと同じで、おそらく発電機というやつなのだろう。
「これ、誰が作ったの?」
自転車を飛び下りた葵はアッシュに詰め寄りながら急いて問いを口にした。葵の迫力に気圧されしているアッシュは少し身を引きながら話に応じる。
「マッドだよ。これだけじゃなくて、さっきアオイが質問してた調理器具とかもマッドが作ったって聞いてる」
詳しいことは知らないとアッシュは言っていたが、葵にはその情報だけで十分だった。部屋の外へ飛び出した葵は勢いを緩めないままアパートの外階段を駆け上り、203号室の前に辿り着くなり扉を連打する。
「マッドさん! マッドさん!!」
いくら呼びかけても内部からの反応はない。この203号室がどういった造りになっているのかを思い出した葵は無断で扉を開け、衝立に向かって改めて声を張り上げる。
「マッドさん! ちょっと出て来て!」
しかしいくら衝立に呼びかけようと、やはり反応はない。留守なのかと焦った葵は目の高さにある小窓をこじ開けようとしたのだが、それは内側からしか開けられない代物のようだった。何とかならないかと周囲に視線を走らせた葵は、あるものに目を留めて動きを止める。そういえばインターホンがあったのだと思い出したところで、葵はボタンを連打した。
「うるっさぁぁぁぁぁい!!」
くぐもった怒鳴り声が聞こえてきたかと思ったら、視界を占めていた衝立が不意に取り除かれた。まるで
「な、何なんだ、オマエ!」
薄い眉を吊り上げて声を荒らげたマッドの表情は、目元が色眼鏡で覆われているためよく分からない。きれいに剃り上げられたスキンヘッドに色眼鏡といったヤクザのような出で立ちをしていてもマッドには迫力というものがなく、怒鳴られても怯むことのなかった葵は普通に会話を開始した。
「あの自転車、マッドさんが作ったってホント?」
「じ、ジテンシャ? 何なんだ、それは」
「そっか、えっと……タイヤが二つついてて、ペダルを漕ぐやつだよ」
「ディ・ナモのことか。あ、あれが、どうしたって言うんだ!」
「……天才」
「え、え?」
「あんなすごいもの作れちゃうなんて、天才だよ!」
「何だって!?」
急に身を乗り出してきたマッドは葵の肩をがっちりと掴み、さらに顔を近づけてきた。興奮のあまり我を忘れていた葵もこれにはギョッとして、慌てて身をよじる。しかしマッドは葵を離さず、さらに声を荒らげた。
「君にはアレの価値が解るのか!!」
「う、うん。すごいよ」
何をするにも魔法が主流の世界において、マッドが生み出したものは完全に世界の流れに反している。その発想自体がすごいのだと葵が言うと、マッドは葵の手をぎゅっと握り締めた。
「そんなことを言ってもらえたのは初めてだ! よーし、創作意欲が湧いてきたぞ!」
「ね、ねぇ、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「ディ・ナモの価値が解る君は同志だ! 何でも言ってくれたまえ!」
おだてたつもりはなかったのだが、マッドはすっかりその気になってしまっている。同志と呼ばれることはともかく、願いは聞き入れてもらえそうな雰囲気だったため、マッドに「待ってて」と言い置いた葵は慌てて隣の自室へと引き返した。
(あの人なら、直せるかもしれない)
六畳一間の私室で私物の鞄をあさった葵は一縷の望みにかけるため、大切にしまってあった携帯電話の残骸を握り締めてマッドの部屋へと引き返した。
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