優しい風が体を撫でていった感触で、宮島葵は目を覚ました。瞼を持ち上げてみると視界を染めたのは、一面の青。それが雲一つない青空なのだと気付いたのは、鳥の影がよぎって行ったからだった。
(……高い……)
空がこんなにも高くて遠いことを、今まで知らなかったような気がする。抜けるような青さはどこか海にも通じていて、身を委ねてしまいたくなった。平衡感覚を失って、漂って、溶けて、消えていく。夢見心地にそんなことを考えていた葵の思考を現実へと引き戻したのは、どこからか聞こえてきた小さな泣き声だった。
(誰……?)
導かれるように体を起こしてみると、平坦な岩の縁に子供が腰を下ろしていた。こちらに背を向けて座っているので顔は見えないが、その後ろ姿から想像するに男の子だろうか。立ち上がった葵が傍へ寄ろうとすると、その子供も立ち上がってこちらを振り返った。
正面から向かい合った子供は、やはり男の子だった。年の頃はおそらく、ユアンと同じくらいだろう。丸い眼鏡が特徴的で、見る者に柔らかな印象を与えている。
「あなたは、誰?」
葵が問いかけると、少年はニコリと微笑んだ。その笑顔に目を奪われているうちに、彼の体は重力に逆らってふわりと宙に浮く。その仕種がユアンを彷彿とさせて、葵は自分が夢を見ているのではないかと思った。
目前まで移動してきた少年はゆっくりと手を伸ばし、葵の頬に触れた。両手で葵の顔を包み込むと、彼はそのままお互いの額をコツンとぶつからせる。刹那、洪水のように様々なイメージが押し寄せてきた。以前にも一度その感覚を経験している葵は小さく頭を振った後、驚いて目を見開く。
「あなたが精霊王?」
「はじめまして。あなたのことは人王からも聞いているよ」
精霊王とは
「おじーさん……あなたの前の精霊王は、どうなったの?」
「あの方は、世界に還られたよ」
「世界に還る……」
それは人間の世界でいうところの『死』を意味していて、呆然と精霊王の言葉を繰り返した葵は脱力して座り込んだ。あの世界の果てのような場所で感じたのは、やはり別れだったのだ。瞼の裏に蘇った老人の背中が胸を切なく軋ませて、涙が零れた。
「あの方は最後に、どんな表情をあなたに見せた?」
涙を拭っている葵の傍らに腰を下ろすと、少年は静かに問いかけてきた。優しい老翁の笑顔を思い出すとまた切なくなって、葵は顔を歪めながら答える。
「笑ってくれた。すごく、優しく」
「それなら、哀しむことはないよ」
彼に慰められるのを不思議に感じた葵は、精霊王の顔をまじまじと見つめた。そこに涙の跡を窺うことは出来ないが、葵は誰かの泣き声を耳にして目を覚ましたのだ。泣いていたのはきっと、彼だろう。その涙は別れの悲しさから流れたものではなかったのだろうか。
「あなたは哀しいから泣いてたんじゃないの?」
それは意外な問いかけだったようで、一瞬驚いたような表情を見せた精霊王は、その表情を苦笑に変えてから答えを口にした。
「精霊にとって世界に還るということは幸せなことなんだ。いつかその時が来たら、私も至福を感じると思う。それでも別れを惜しんでしまうのは、私が未熟だからだね」
人間が他者の死に直面して涙する時、それは死者のために泣いているのではないという。死者との別れが辛いと感じる自分のために泣いているのだという話を、葵は唐突に思い出した。精霊王が自身を未熟だと言っているのは、きっとそういうことなのだろう。
話が途切れると精霊王は立ち上がり、葵に手を差し伸べてきた。少年に助けられて立ち上がった葵はふと違和感を覚え、周囲に視線を走らせる。何がおかしいと感じたのかを知ると、葵は再び精霊王に視線を傾けた。
「ここに魔法陣が描いてあったでしょ? あれ、何で消えたの?」
葵達がいる場所は切り株のように平坦な岩山の上で、そこには大きな魔法陣が描かれていた。その魔法陣のせいで魔法を使うことも出来ず、葵はこの場所に閉じ込められていたのだ。しかし今は、魔法陣があったという痕跡さえ見当たらない。こすっても消えなかった魔法陣がどうやって消滅したのか、葵は不思議に思ったのだった。
「先代の精霊王が内側から破壊してくださったんだよ。あれは私の手に負えないものだったから、先代が除去してくださらなかったら、あなたとこうして会うことは出来なかった」
「おじーさんが……助けてくれたんだ」
「あの魔法陣がどのような効果をもたらすものだったのか、あなたは知っている?」
「あ、うん。空間を世界から切り離すとか、何とか……」
「その魔法にはね、精霊は手を貸していないんだよ。近頃は私たちが干渉することの難しい魔法が増えてきた。それは人間が長い年月をかけて魔法というものを研究してきた賜物なのだろうけれど、
精霊王が何を言いたいのか理解出来ず、葵は眉根を寄せて首をひねった。どこか遠くを見つめながら言葉を紡いでいた少年は葵に視線を戻すと苦笑を浮かべる。
「ごめんね。あなたはこの世界の者ではないのだから、理解に苦しむよね」
「そんなことも、ないけど。私がいた世界でも自然破壊が問題になってたし」
人間の生産活動による、自然の破壊。葵がいた世界には魔法が存在しなかったが、共存を考えなければならないという点ではこの世界と同じだろう。自然を司っている少年が人間との関係を憂えているのは、理解出来る。ただ分からないのは、彼が何故そんな話を自分に聞かせたのかということだ。
異世界の話を
「あなたの傍にいる、金髪に碧眼の青年のことなのだけれど」
「金髪に碧眼? アルのこと?」
「
精霊王が口唇に人差し指を立てたので、何かまずいことを口走ったらしいと察した葵も自分の口元を手で覆った。何がいけなかったのかは分からなかったが、葵は閉口したまま言葉の続きを待つ。奇妙な間を置いた後、精霊王は再び口火を切った。
「私は
「何を?」
「禁呪は世界の理を乱すものだ。決して、触れてはいけない」
「禁呪……」
その単語に聞き覚えのあった葵は独白を零すのと同時にレイチェルの姿を思い浮かべた。彼女の体にはタトゥーのような茨の痣があり、それは禁呪に手をつけた者が負う罰なのだという。
「あなたはそろそろ在るべき場所に戻った方がいい。送るよ」
「ああ、いいよ。自分で帰れるから」
檻の役割をしていた魔法陣さえ消えてしまえば、帰るのは呪文一つで事足りる。葵はそのつもりで転移の呪文を唱えたのだが、いつまで経っても周囲の景色が変わることはなかった。
「……あれ?」
「今のあなたは異世界の理に強い影響を受けている。魔法は使えないよ」
「あ、そっか。おじーさんがいなくなっちゃったから……」
葵が自力で魔法を使うことが出来たのは、その体に元精霊王の力を宿していたからである。その存在自体が消えてしまった今、再び魔法を使えなくなってしまったというわけだ。
「……ごめん、送ってくれる?」
一度は断ってしまった手前、若干切り出しにくく感じながらも、葵は精霊王にお願いをした。少年がニコリと笑んで腕を持ち上げると、葵の周りで発生した風が彼女の体を宙に持ち上げる。強い風に翻弄されながら「ありがとう」と叫ぶと、瞬く間に遠ざかった精霊王が手を振って応えてくれたような気がした。
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