「お忍び用。髪の色が違うだけで、けっこう分からないものでしょ?」
無邪気な笑みを浮かべたユアンは髪色が金からダークブラウンに変わっている理由をそんな風に説明した。確かにイメージは変わるけれども……と思いながら、葵はクレアに視線を移す。目が合うと、クレアは苦笑いをして肩を竦めて見せた。その反応から察するに、ユアンの家庭教師であるレイチェル=アロースミスには秘密なのだろう。
(ぜんぜん懲りてないじゃん)
ユアンは先日、イタズラが過ぎるという理由でこっぴどく叱られたばかりだ。それなのに反省の色がまったく見えないところが、ユアンらしいと言えばユアンらしい。そう思った葵がクレアに苦笑を返していると、ユアンが少し屈んで欲しいと要求してきた。
「これでいいの?」
「うん。アオイ、会いたかったよ」
久しぶりに恋人と会ったような科白を言ってのけると、ユアンはまた葵の頬に口づけてきた。少々度が過ぎるユアンのスキンシップにクレア以外の者達が愕然としていたが、その変化に気付かなかった葵はユアンとの会話を続ける。
「昨日も会ったじゃん」
「昨日はシュシュや王妃様がいたから大人しくしてたんだ。言いたいことがたくさんあったから、黙ってるのが大変だったよ」
「言いたいこと? 何?」
「その前に、アオイもしてよ」
ユアンがせがむように頬を差し出してきたので、その意図を察した葵は苦笑しつつも求めには応じてあげた。葵がユアンの頬にキスを返すと、クレア以外の周囲が再び愕然とする。しかし葵にとってはこれがユアンとの『普通』になりつつあったので、マジスター達が絶句していることに相変わらず気がつかなかった。
「イチャつくんはそこまでや」
それまで黙していたクレアが二回手を叩き、容喙してきた。ユアンがいても口調を改めないところをみると、今は仕事中というわけではないのだろう。そもそもユアンは、ここへ何をしに来たのか。葵がそう思い始めた頃には、彼はマジスター達に向き直っていた。
「もう自己紹介するまでもないとは思うけど、一応しておくね。僕はユアン=S=フロックハート。僕が誰なのか知れると騒ぎになっちゃうから、人が見ている所ではトリックスターって呼んでね。特別扱いも禁止だよ」
他の生徒に正体をバラしたら、爵位を剥奪する。ユアンが笑顔でそう脅すと、マジスター達は一様に跪いて頭を垂れた。普段はチヤホヤされてふんぞり返っているマジスターの低姿勢はなかなか見られるものではなく、葵は改めてユアンの持つ肩書きの恐ろしさを実感した。
「……ユアンってすごいんだね」
「見直した? 惚れ直した?」
「うーん、それは微妙」
「え〜? 僕はこんなにアオイのこと大好きなのに」
「そういうことばっかり言ってると、シュシュに言いつけるよ?」
「……ごめんなさい」
シャルロットの名前を出した途端にユアンが悪ふざけをやめたので、葵は笑ってしまった。ユアンも苦笑いをしていたが、クレアの咳払いが聞こえてくると真顔に戻る。クレアに向かって「分かっている」と言うように頷いて見せてから、彼は未だ低頭したままでいるマジスター達に向き直った。
「頭を上げて、楽にして。僕はまだ一国民の身だし、内々で話をしている時は儀礼なんていらないから。あ、僕の名前に『様』とかもつけなくていいよ」
「ユアン様、それはあかん。内々の話でも最低限の礼は守ってもらうもんやし、呼び捨てなんてもっての他や」
フランクすぎるユアンをクレアが窘めたので、立ち上がったマジスター達はどういった態度に出ればいいのか分からずに困っているようだった。しかしこのままでは話が進まないと思ったのか、ユアンとクレアが言い合いをしているとウィルが容喙してくる。
「ユアン様、お聞きしたいことがあるのですが」
結局はウィルが畏まったので、クレアは満足そうな顔で口を閉ざした。ユアンも言い合いをするのはやめ、ウィルに向き直って応える。
「あなたはヴィンス公爵のご子息だね。ウィル、って呼んでもいい?」
「もちろんです。ユアン様が僕達に気を遣われる必要などありませんから」
「じゃあ、他の人達も名前で呼ばせてもらうね。それで、聞きたいことって何?」
「ユアン様はアオイに会いに、学園へいらしたのですか?」
「それもあるけど、あなた達にも会いに来たんだ」
ウィルの問いかけに答えると、ユアンはマジスター達に微笑みかけた。その意味が分からなかったのは葵だけではないようで、マジスターやクレアも怪訝そうな表情をしている。周囲を困惑させるのが好きなのか、ユアンは楽しそうにしながら言葉を重ねた。
「ウィルとキリル、アオイを賭けて勝負するんでしょ? その内容を一緒に考えてあげようと思って」
ユアンの発言に一番驚いたのは葵だった。ただでさえややこしいことになっているのに、このうえユアンまで面白半分に介入してきたら収拾がつかなくなる。直感的にそう確信した葵は抗議の声を上げたのだが、ユアンは口八丁で葵を宥めると、さっさと話を進めていった。
「何で勝負するのかは、キリルとウィルには当日までナイショ。これから話し合いをするけど、二人は来ちゃダメだからね?」
準備期間中も情報収集は禁止だと仰々しいことを言うと、ユアンはキリルとウィルに承諾を求めた。どんな勝負になろうと勝てる自信があるのか、ウィルは余裕の表情ですぐに頷いて見せる。キリルは無反応だったが、ウィルに頷くよう促されると上の空で承諾した。
「じゃあ、キル。僕達は行こうか」
「あ、待って」
ウィルに促されてフラフラと歩き出したキリルに、葵は慌てて声をかけた。しかしキリルの耳には届かなかったようで、彼は歩みを止めることなく去って行く。
「キリルに用があったんか?」
遠ざかって行くキリルとウィルを見つめていたらクレアが声を掛けてきたので、葵は視線を移してから頷いて見せた。
「ちょっとね。でも、今じゃなくてもいいことだから」
「さよか? なんや、ボーッとしとったなぁ」
クレアの言うように、確かにキリルは放心状態で去って行った。しかし、その理由が葵のイヤガラセによるものなのかどうかは、今となっては分からない。ユアンが突然現れたりしてキリルも混乱しているのだろうし、彼が冷静になるためには少し時間が必要だろう。後で謝ろうと思い、葵はキリルのことを考えるのをやめた。
「そういえば、クレア達って一緒にシエル・ガーデンに来たの?」
クレアはまだキリルとウィルが去った方角を見ていたが、葵が問いかけると視線を傾けてきた。苦笑いを浮かべながら、彼女は問いの答えを口にする。
「せや。屋敷に帰ったらユアン様がおってな、話をしとるところにオリヴァーが現れたんや。なんや、オリヴァーの家に行くんやってな?」
「あ、そうそう。キリルやウィルも一緒にって話だったんだけど……」
「作戦会議はバベッジ公爵邸でやろうよ」
葵とクレアの話に容喙してくると、ユアンは次にオリヴァーに目を向けた。
「僕も招待してくれる?」
「もちろんです」
「も〜、カタいなぁ。本邸ってことはバベッジ公爵もいるんでしょ? そんな喋り方してたら僕だってバレちゃうよ」
お忍びなんだからねと、ユアンが困っているオリヴァーに念を押す。オリヴァーが救いを求めて目をやったので、クレアが介入していった。
「ユアン様の言うようにしたってや」
最低限の礼節さえ保たれていれば言葉遣いにまで口を出すつもりはないとクレアが明言すると、オリヴァーも仕方がなさそうに苦笑いを浮かべた。
「分かった。屋敷ではトリックスターって呼んだ方がいいんだな?」
「人がいる所では、それでよろしく」
「同じ相手に態度を使い分けるのって難しいんだよな」
こういうことをサラリとやってのけるのはウィルくらいだと、オリヴァーは愚痴のような独白を零している。普段から同じことで悩まされているクレアが彼の意見に同意すると、そこで話に花が咲いた。その間に、ユアンはハルに視線を移す。
「よろしくね、ハル」
「何で俺達の名前まで知ってるんだ?」
「アオイに関することなら何だって知ってるよ?」
ユアンがハルにそう言っているのを聞いて、葵は反射的にドキリとした。
(そ、そういえば、ユアンって……)
直接的にハルの話をしたことはないが、ユアンはおそらく、葵がハルのことを好きだと察している。直接的な話をしていないからこそ、今もまだ好きだと思われているかもしれないのだ。余計なことを言われる前にユアンの口を塞いだ方がいいと判断した葵は行動に出ようとしたのだが、その前にハルが動いた。何を思ったのか彼はいきなり、ユアンの頭を撫で回す。ユアンがキョトンとして顔を上げると、ハルは無表情のまま「弟に欲しい」と脈絡のない発言をしたのだった。
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