静止した時の中で

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 アン・カルテという呪文で世界地図を描き出した時、そこには大陸が二つほど存在している。西の大陸の三倍ほどの面積を誇る東の大陸はスレイバル王国が統治していて、その支配は長きにわたって続いていた。平和な王国では魔法の研究が盛んで、なかでも王都は研究者達の聖地である。平素は研究者や観光客などで穏やかな賑わいを見せているのだが、この日はいつもと勝手が違った。王城内が妙に慌ただしく、その余波が城下町にも伝わっているからだ。

 王城ではこの日、早朝から御前会議が開かれていた。あることを決議して会議が終わると、国王を始めとした国の運営者達が慌ただしく会議室を出て行く。その喧噪の中、会議に出席していた葵はゆっくりと席を立った人物に声をかけた。老齢の上品な女性は、トリニスタン魔法学園の学園長であるエレハイム=トリニスタンだ。

「あの、魔法道具マジック・アイテムを壊してしまって……すみませんでした」

 エレハイムは鐘の番人クローシュ・ガルデと呼ばれる存在で、トリニスタン魔法学園にある時の鐘を管理していた。彼女の一族は永らく時の研究をしていて、時の精霊を召喚出来るマジック・アイテムは、彼女の祖先が生み出したものなのだ。非常に貴重なものを、不可抗力とはいえ失わせてしまった。葵はそのことに責任を感じていたのだが、エレハイムは穏やかに笑んで見せる。

「それはあなたの責任ではありません。時の研究が禁呪となったことは残念ですが、あなたのおかげで過去の出来事を知ることが出来ました。人間も世界の一部。理を乱せば犠牲を被るのですから、私達はこれで満足するべきなのでしょう」

 エレハイムの発言からはこの結果に対する納得を感じ取ることも出来たが、おそらくはそれ以上に、研究者としての無念の方が強いのだろう。理性で願望を抑えつつも、彼女は自分の目で真実を確かめたかったに違いない。探究の徒という人種は複雑な生き物だと、葵はエレハイムを見て改めて思った。

「時の精霊と出会って、求めるものは得られましたか?」

 会議では人間の時間が止まっていたことや時の精霊に重点が置かれていたので、葵の個人的な話は一切出なかった。それ故のエレハイムの質問だったので、葵は頷いて見せる。そうですかと、エレハイムは柔らかく相槌を打った。

「では、賭けは私の負けですね。あなたの健勝を祈っています」

 柔らかく微笑んで、会話を終わらせたエレハイムは去って行った。彼女の姿が会議室から消えてしまうまで見送っていると、葵と同じく会議に出席していたユアン=S=フロックハートが声をかけてくる。

「学園長と賭け事してたの?」

「うん、ちょっとね」

 時の欠片を自力で集めてマジック・アイテムを完成させる。それが出来なかったら生まれ育った世界に帰ることを諦めるという、賭けとも呼べない小さな約束。それはエレハイムの優しさの表れで、彼女は葵に、この世界で生きていく道もあるのだと教えてくれた。その温かさに胸中でもう一度深謝を捧げてから、葵はユアンに視線を転じる。

「ユアンは王様達と行かなくて良かったの?」

 ユアンの家庭教師であるレイチェル=アロースミスは、会議が終わると国王達と共に姿を消した。ユアンもそれに同行するのだろうと、葵は勝手に思っていたのだ。葵の疑問に対し、ユアンは笑みを作って答える。

「僕はまだ公の存在じゃないから。出番がないんだよ」

 ユアンは次期国王という立場にある少年だが、十五歳になるまでは一国民として扱われるらしい。後のことはレイチェルや国王がうまくやってくれるだろうとユアンが言うので、葵も考えることをやめにした。

「それにしてもアオイ、夢魔に遭遇してよく無事だったよね」

 夢魔に遭遇したことや、彼から受けた警告は、すでに会議の席で話してあった。しかし『無事』の意味が解らず、葵は首を傾げながら問い返す。

「無事って、何のこと?」

「夢魔は恐ろしい存在なんだよ。どんな人の好みのタイプにもなれちゃうんだから」

「それ、夢魔も言ってた。でも何の意味があるの?」

「夢魔はね、人間に精を植え付けるんだ。そうやって自分の分身を増やして、別の世界でも影響力を拡大出来るんだよ」

 つまりは人間を誘惑するために、その人物が好みとする外見でもって現れる。そのことを理解して初めて、葵は夢魔の言動に納得がいった。同時にゾッとして、無意識のうちに首筋に手を伸ばす。それを見咎めたユアンが、怪訝そうに眉をひそめた。

「首、どうかしたの?」

「いや、ちょっと……」

「見せて」

 素早く床を蹴ったユアンは呪文の詠唱もなしに浮遊し、首筋に当てた葵の手を退けた。そこに内出血の痕があるのを見て、ユアンは痛ましそうな表情になる。

「これ、もしかして夢魔に?」

「うん……。でも精霊王が助けてくれたから、他には何もされてないよ」

 葵はユアンを安心させようとして言ったのだが、彼は何故か眉間のシワを深くしてしまった。

「精霊王が現れたの?」

「え? 何か、ダメなの?」

「ダメじゃないよ。アオイを助けてくれたのは全然ダメじゃないけど、でも……」

 何か葛藤があるようで、目を逸らしたユアンは黙り込んでしまった。彼が何に逡巡しているのか解るような気がして、不安が感染した葵も顔をしかめる。

「精霊王、時の精霊に心配されてた。やっぱり、危ないことしてくれた感じなの?」

「時の精霊は精霊王の管轄だから無関係ではないんだけど、それでもやっぱり、調和を護る者ハルモニエとしての責務を超えちゃってるような気がする」

 それはつまり、精霊王が過剰な危険を冒して助けに来てくれたということだ。世界の意思に反した者がどうなるのか、葵とユアンは身を持って知っている。そのためしばし沈黙が流れたが、そのうちにユアンがあえて明るい調子で話を再開させた。

「まったく、最近の精霊王はどうかしてるよ。今度ガツンと言ってやらなくちゃ」

「……ユアンにだけは言われたくないと思うけど」

 無謀なことをするのは精霊王よりも、どちらかというとユアンの専売特許だ。そう思った葵はぼやいてみたのだが、ユアンの耳には届かなかったらしい。聞き返されたが、もう一度口にすることはなく、葵はその話題を終わらせた。

「ところでアオイ、その首筋の痣なんだけど」

「うん?」

 話が再び戻ってきたので、葵は無意識に首を押さえた。ユアンはもう宙に浮いておらず、少し顔を上向かせている彼は葵の首筋を注視しながら言葉を続ける。

「夢魔の刻印はそのままにしておかない方がいいと思うんだ。見た目も良くないしね」

 ちゃんと診てもらった方がいいとユアンが言うので、それまであまり意識していなかった葵は俄かに不安を感じた。

「ただのキスマークじゃないの?」

「キスマークってそもそも、相手が自分のものだって見せつけるためにつけるものでしょ? 夢魔に所有権を主張されたままにしておくのはまずいと思うんだよね」

 夢魔は人間とは棲む世界が違うため、その生態はよく知られていない。ただのキスマークで済めばいいが、もしかしたら呪い――マーキングの可能性もあるのだ。それに、とユアンは苦笑しながら話を続ける。

「ハルに見られたらイヤじゃない?」

 ユアンに言われて初めて、葵はそのことに思いを及ばせた。それは確かに、見た方も見られた方も嫌な気分になる。ましてやハルとは、気まずいまま別れたきりだ。次に会う時に余計な不安要素まで抱えていたくない。そう思った葵はユアンの提案に従うことにした。

「じゃあ、行こうか」

 言い置くと、ユアンは葵の手を引いて歩き出した。バタバタしている王城内を人の間を縫って進み、辿り着いたのは第一総合研究室というプレートがかけられた部屋の前。様々な研究室が並んでいるのだというその辺りは、先程までの喧騒が嘘のように静謐を保っていた。

「ここはレイが主席研究員を務めてる研究室ラボなんだ」

「そうなんだ? でも、レイはいないんでしょ?」

 医師のようなことまで出来るレイチェルは先程、この国の王と共に去って行った。今頃は方々を駆け回っているはずで、研究室に戻っているとは思えない。そうした葵の意見にユアンも頷いて、診察してくれるのは別の人物であることを告げた。






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