想いの檻

BACK NEXT 目次へ



(……あれ?)

 トリニスタン魔法学園アステルダム分校から小一時間ほどかけて徒歩で帰宅した葵は、屋敷の玄関前に人影があることに気付いて歩みを止めた。扉に背を預けて座り込んでいるその人物は首を垂れているので、ここからでは顔が分からない。だがパッと見ただけで、知った人物であることは見て取れた。

「ハル、」

 急いで傍へ寄ると、葵はしゃがみこみながら声を掛けた。しかしいつまで経っても反応が返って来ないので、今度は軽く腕を揺すりながら名前を呼んでみる。するとハルは顔を上げたが、その瞼は今にも蕩けそうだった。彼が寝ていたことを知り、葵は呆れ顔になる。

「なんでこんな所で寝てるの?」

「いなかったから……待ってた。おかえり」

 眠そうな顔をしたハルが目をこすりながら発した一言に、不意を突かれた葵は心臓を鷲掴みにされた。

(う、わぁ……)

 まさかハルから、こんな風に迎えられる日が来るとは夢にも思わなかった。誰にも会えずに寂しい思いをした後だけに、おかえりの一言が泣きたくなるほど沁みてくる。こんな幸福感は味わったことがなくて、どういう表情をしたらいいのか分からなくなった葵は顔を背けた。

「? 何?」

 何気なく言葉を紡いでいたであろうハルから訝しげに問いかけられたため、葵は必死で自分を落ち着かせながら表情を改めた。なんでもないと言いつつ再びハルを見ると、ある変化が目に留まる。

「傷、治ったんだね」

 最後に会った時、ハルの顔はキリルに殴られたせいで腫れていた。顔の他にも色々と怪我をしていたのだが、その影響も感じられない。もう大丈夫なのかと葵が問うと、ハルは真顔のまま頷いて見せた。

「あの人の魔法薬が効いた」

「ああ……アル、そういうの得意だから」

 アルヴァの魔法薬がよく効くことは、葵も身を持って知っている。改めてアルヴァに感謝しつつ、葵は話題を変えた。

「オリヴァーに会った?」

「オリヴァー?」

「あれ? 会ってないの?」

 ハルが怪訝そうに眉をひそめたので、てっきり会っているものだと思っていた葵も首を傾げる。ハルから説明を求められたため、葵は保健室での出来事を簡単に説明した。

「だから、オリヴァーがハルを呼んでくれたのかと思ったんだけど……行き違いになっちゃったみたいだね」

 そこまで話したところでふと、疑問が浮かんだ。オリヴァーに言われて来たのでなければハルは一体、いつからこの場所で待っていたのだろう。いつ帰宅するかも分からない相手を待ち続ける理由、それは……。

(ハルも、同じ気持ちでいてくれたのかな)

 今までのように用事があるから探すのではなく、ただ会いたいから会いに行く。この気持ちはもう、一方通行ではないのだ。そう実感したことで再び、葵は途方もない幸福を感じた。

(会いたかった、)

 会えなくて、寂しかった。喉元まで出かかった言葉を、葵は口唇を噛んで呑み込んだ。その科白を口にしていいものかどうか、迷いがあったからだ。しかしそんな迷いは、ハルの行動によって掻き消される。引き寄せられる形で自分から口唇を重ねることになって、その瞬間、葵は何も考えられなくなった。

「……ハル……」

 短い口づけの後、口元を手で覆った葵は真っ赤になりながら抗議の声を上げた。いきなり何をするのだと文句を言ってみても、ハルの表情は動かない。

「したくなかった?」

「そういうわけじゃ、ないけど……」

「俺はしたかった」

 ハルからの好意が直接的すぎて、恋愛経験の浅い葵は絶句してしまった。付き合うとはこういうことなのかと、改めて思い知らされる。互いの好意が相手に知れている分、一度箍を外すとどこまででも行けてしまいそうだ。

 葵の動揺を知ってか知らずか、涼しい顔をしたままのハルは不意に視線を外した。その瞳が自分を通り越していたため、ハルから体を離した葵は背後を振り返る。そこには転移に使用する魔法陣が描かれていて、少しすると、その場所に見知った人物が出現した。

「クレア」

 意外な人物の登場に、驚いた葵は立ち上がる。魔法陣に出現したクレアは玄関先で座り込んでいるハルと葵を見て眉根を寄せていたが、葵が傍に来ると表情を改めた。

「ただいま帰ったで」

「うん、おかえり。もうちょっとオリヴァーの所にいるのかと思ってたから、ビックリした」

「ああ、オリヴァーに話聞いたんやな。今もおるんか?」

 クレアが屋敷の方を見ながら問いかけてきたので、意図が分からなかった葵は首を傾げた。

「今はいないよ。学校で会った後、ハルの所に行くって言ってた」

「ハルならそこにおるやないか」

「うん。だから、行き違い」

「なんやそれ」

 呆れ顔を作ったクレアだったが、彼女もオリヴァーと行き違いになったのだという。まず、もう十分に休養したと感じたクレアは自宅に戻ることをオリヴァーに伝えようとした。しかしその時にはすでにオリヴァーの姿がなかったため、クレアは言付けをして帰って来たらしい。その間にオリヴァーが葵と話をしたため、タイムラグが生じたというわけだ。ハルのことといい、今日のオリヴァーはすれ違ってばかりいる。魔法という便利なものが存在していてもそういったことがあるのかと、葵は妙なところで感心してしまった。

「で、おたくらはそんな所で何しとったんや」

 話題が急に自身のことになり、答えあぐねた葵は口を閉ざした。キリルのために尽力してくれたクレアに、まさか玄関先で恋人同士の触れ合いをしていたとは言えない。そう考えると先程の行いが不謹慎なものに思えてきて、罪悪感を募らせた葵は目を伏せた。

(そうだよ。あんなことしてる場合じゃないのに)

 キリルを傷つけて、葵は今の幸せを手に入れた。その自覚を持つことは勿論のこと、今は周囲の者達にも気を配るべきだろう。オリヴァーは許してくれたが、ウィルには蔑みの目を向けられている。キリルが傷ついている姿を間近で見ているクレアも、葵とハルが仲睦まじくしていたら良い気持ちにはならないはずだ。

「まあ、大方の想像はつくからなぁ。言わんでもええわ」

 答えを待たずにクレアが肩を竦めたので、葵は小さな声で「ごめん」と呟いた。項垂れた葵を見て、クレアは眉をひそめる。

「なに謝っとるんや?」

「だって……クレアもいい気はしないでしょ?」

 クレアは初め、何を言われているのか分からない様子だった。しかし彼女の肩口にいるマトが何かを言ったのか、マトを一瞥したクレアは驚きの表情を浮かべる。それを呆れ顔に変えながら、クレアは葵に視線を戻した。

「フラれたキリルが可哀想やから、うちがアオイとハルを見て怒ると思っとるんか?」

「…………」

「アホやなぁ。それやったらそう言ってるわ」

 これだけ一緒にいてもまだ性格を把握出来ないのかとクレアに怒られて、葵はハッとした。言われてみれば彼女は良くも悪くもストレートで、思ったことは必ず口にする。だからクレアが非難しないということは、彼女は本当に、そう思っていないのだ。

「ええか、アオイ。キリルに悪いと思うんやったらその分、おたくらは幸せになる努力をせなあかんのや」

 引け目を忘れる必要は、ない。その上で誰よりも幸せになれというクレアの意見に、葵は目から鱗が落ちる思いがした。それは、ただ許されるよりも過酷な道程なのかもしれない。だが開き直れるほどの強さがない葵にとっては、たった一つの救いのように感じられた。

「おたくもやで、ハル」

 呆けている葵から視線を外したクレアは、未だ玄関前に座り込んでいるハルを見据えて言葉を紡いだ。ハルは何も言わなかったが一度だけ、静かに頷いて見せる。それを見てクレアは破顔した。

「分かったら、そこ退きぃ。ジャマや」

 クレアは手で追い払うようにしてハルを退かせたが、家の中に入ればいいと言ってくれる。その率直すぎる厚意を受けることにした葵とハルは、二人並んで屋敷の中へと歩を進めた。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2016 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system