(今日は誰かに会えるといいんだけど)
一時のこととはいえ、会いたい人に出会えないのは寂しい。それができたばかりの恋人であれば尚のことで、登校の波が引くのを待つ間、葵はハルのことを思い浮かべていた。すると同時に、傷つけてしまったキリルのことも考えてしまう。彼らは今、どこで何をしているのだろう。
(…………)
気持ちが沈みがちになった頃、ようやく人気がなくなったため、葵は校舎へと移動することにした。気がかりなことは幾つもあるが、それを解消するためにはまず、誰かに出会わなければならない。この部屋の主が室内にいることを願って、葵は校舎一階の北辺にある保健室の扉を開けた。
「……え、」
昨日は無人だったが、今朝の保健室には人影があった。しかしそれは予想していた人物ではなく、驚いた葵は扉を開き切ったところで動きを止める。室内にいた人物は葵を見ると、平素と同じように声をかけてきた。
「おはようございます」
一見冷徹に思える無表情で朝の挨拶を口にしたのは、アルヴァの姉であるレイチェルだった。何故か白衣を着用している彼女は、彼女自身が持つ毅然とした空気と相まって、女医のように見える。似合いすぎだと思いながら、葵は口を開いた。
「レイ……何してるの?」
「アルヴァの代理です。しばらくはわたくしが、この学園の校医を務めます」
葵が尋ねるよりも先に、レイチェルはアルヴァが不在の理由を明らかにした。体調不良と聞いて、最後に会った時のアルヴァを思い浮かべた葵は眉をひそめる。
(元気そうだったけどな)
最後に会った時、アルヴァはいつものようにテキパキと、キリルに殴られたハルの手当てをしてくれた。顔色や態度からも不調の兆しは見えなかったように思うが、その後、悪化したのだろうか。そう考えると俄かに不安が押し寄せて来て、葵はレイチェルに詰め寄った。
「アル、大丈夫なの?」
「数日休めば落ち着くかと思いますので、心配は無用です」
「そっか。良かった」
重病ではないようなので、葵は胸を撫で下ろした。それならば見舞いに行きたいと申し出たのだが、それはレイチェルに却下されてしまう。アルヴァが弱っている姿を見せたくないだろうというのが理由だったが、葵は首を傾げた。
「今さらだと思うけど」
「今更と思われるほどに、アルヴァはアオイに醜態を晒してきたのですか?」
「……なんか、ちょっと違う」
レイチェルが言うと大袈裟に聞こえると、葵は苦笑いを浮かべた。そんな話をしているうちにふと、レイチェルがあらぬ方向へ顔を傾ける。その視線の先を追った葵が扉の方を振り返ると、しばらくしてそこに来訪者が現れた。
「アオイ……に、レイチェル様」
室内にいる葵を認めて気安い笑みを浮かべたオリヴァーは、その直後にレイチェルを見て顔色を変えた。驚愕しているオリヴァーに、レイチェルは淡々と話しかける。
「バベッジ公爵のご子息がわたくしに気を遣われる必要はありません。アルヴァと同じように接して下さい」
「じゃあ、レイチェル……さん。こんな所で何してるんですか?」
白衣姿のレイチェルを、オリヴァーは訝しそうに見ていた。先程葵と交わした問答を繰り返すと、オリヴァーは納得したように頷く。
「オリヴァーはアルに用があったの?」
会話が途切れたところで葵が容喙すると、オリヴァーはレイチェルがいたことにビックリしただけだと答えた。それから改めて、オリヴァーは葵の方を向く。
「アオイを探してたんだ。家に行ってもいなかったから、ここかと思ってさ」
葵の方もオリヴァーを探していたのだが、行き違いになってしまっていたらしい。オリヴァーの用件を先に尋ねると、彼はクレアのことだと言う。
「ちょっと、色々あってな。クレアとマトはうちにいるから心配しなくていい」
「色々って……何?」
葵からの問いかけに、オリヴァーは即答しなかった。彼が迷うように口を閉ざしたため、良くない話だと察した葵は顔を強張らせる。反射的に身構えた葵を見て、オリヴァーは苦い笑みを浮かべた。
「もう想像がついた、って顔だな」
「キリルの、こと?」
今度は躊躇うことなく、オリヴァーは頷いて見せた。やはりと思った葵は顔をしかめたが、そのまま話を続ける。
「あの後、どうなったの?」
葵とハルが両想いであることが知れた後、激怒したキリルは
「見つけるのは簡単だったんだけど、手が付けられなくてな。俺達じゃどうしようもなかったから、ハーヴェイさんを頼ることにしたんだ。俺がハーヴェイさんに話をしに行ったんだけど、その間に状況が変わったみたいでさ。クレアが無茶したから、うちに連れて帰ったんだ」
疲弊したクレアを休ませるなら、普通は彼女を自宅に帰すことを考える。この場合は葵と共に暮らしている屋敷ということになるが、オリヴァーはそれをしなかった。その理由について、オリヴァーはマトの存在を挙げた。
「クレアだけじゃなくて、マトもそうとう無茶したらしいんだ。魔法生物のことは詳しくないけど、うちはマトみたいな水生生物には環境がいいだろ? それに、フィーもいるしな。助けになってくれるんじゃないかと思ったんだ」
フィーことフィオレンティーナ=アヴォガドロは、バベッジ公爵と盟約を結んだ英霊である。遠い昔に英霊として召喚された彼女は半ば精霊と化しているらしく、マトを任せるにはうってつけの存在だ。フィオレンティーナと会ったことのある葵は、オリヴァーの説明に納得した。
「クレアとマトは大丈夫なの?」
「まだ本調子ってわけにはいかないだろうけど、心配はいらないと思うぜ。キルもハーヴェイさんが連れ帰ったから、もう大丈夫だ」
ハーヴェイの監督下にある限り、少なくとも生命の危機に陥るような暴走を起こすことはない。オリヴァーがそう断言したので、葵は安堵した反面、罪悪感で胸が締め付けられる思いになった。もう大丈夫ということは、一時は生命の危機に晒されるまでの事態に発展していたということだ。
「ごめんね。ありがと、オリヴァー」
「俺らは勝手に世話焼いてるだけだから気にしなくていいって。キルのことは……まあ、任せてくれ」
友人として、出来得る限りのことをする。オリヴァーが何の衒いもなく誓ってくれたので、葵は少し、胸の重荷が軽くなったような気になれた。そこでキリルの話を終わらせると、オリヴァーは話題を変える。
「ハルはどうしてる?」
「えっと……、会ってない」
「え?」
葵の返答にオリヴァーは驚いていたが、詳しい話をすると彼はすぐ納得してくれた。
「なるほどな。そういう時、今まではどうしてたんだ?」
「今まではアルに言えば、大体なんとかなってたから」
しかしさすがに、ハルと連絡を取るたびにアルヴァを介するのは避けたい。葵が苦笑いをしながらそう言うと、それまで黙していたレイチェルが口を開いた。
「アオイ、これをどうぞ」
「? 指輪?」
「わたくしの魔力を込めておきました。利き手の中指に嵌めてください」
聞き覚えのあるレイチェルの科白と指輪をもらうというシチュエーションで、葵は彼女の意図を理解した。誰かを間に入れなくても、要は自分で魔法が使えれば問題は解決するのだ。オリヴァーもすぐに察したようで、彼はレイチェルの機転に尊敬の眼差しを向けている。そういった視線を向けられることに慣れているレイチェルは淡々と、話を続けた。
「通信魔法に必要な
「あ、それなら俺に任せて下さい」
ついでにマジックアイテムの設定もしておくことを明言すると、オリヴァーは葵を振り向いた。
「様子見がてらハルの家に行くけど、アオイも一緒に行くか?」
ただし、気ままなハルが自宅にいるとは限らない。通信魔法による呼びかけもあまり応えない彼は、昔から行方不明になることが多いらしい。オリヴァーから聞いた話は容易に想像出来るもので、葵は苦笑しながら首を横に振った。
「私はいいよ。急ぎの用事とかがあるわけじゃないし」
「そうか? 恋人に会いたいっていうのは立派な急用だと思うけどな」
「……いいから、行って」
他人の口から恋人などと言われると妙に照れ臭く、葵は半ば強引にオリヴァーの背を押した。オリヴァーが軽く手を振って姿を消すと、レイチェルが再び口を開く。
「オリヴァーさんからの連絡を待つのならここか屋敷がいいと思われますが、どうしますか?」
「そうだね。じゃあ、帰ろうかな」
葵が答えると、レイチェルは転移魔法で屋敷まで送ると言ってくれた。しかしこれ以上レイチェルの邪魔をしては悪いと思った葵は申し出を辞退し、一人で保健室を後にする。会いたかった人達に会えたことで気持ちが軽くなった葵はのんびりと、徒歩で帰路を辿った。
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