ヤヤと恋愛についての話をした翌日、キリルはエクランドの本邸からヤヤが借宿としている別邸に移動した。そうして毎度のようにヤヤの観光をサポートしようとしたのだが、彼女の姿はもうそこになかった。使用人が言うには昨日キリルが本邸に帰った後、彼女が突然帰ると言い出したのだそうだ。
「お世話になりました。キリル様にそうお伝えして欲しいと、ヤヤ様から言付かっております」
「そうか……」
寝耳に水な話ではあったが、急用でも思いついたのだろう。少し寂しく思いながら、キリルは使用人達に通常業務に戻るよう通達した。その後、ふと思い立って、ヒューイット公爵家に立ち寄ってみる。アオイを呼ぶよう使用人に告げると、しばらくしてから彼女は姿を現した。
「どうしたの?」
まだ早朝の時分だったが、アオイは寝起きというわけではなさそうだった。一緒に来ないところをみるとハルは寝ているのだろう。
「ヤヤさんが異世界に帰ったから、その報告に来た」
エクランド家の使用人の話では、ヤヤは自身で国王に連絡を取り、異世界に帰ったらしい。なのでアオイには話が行っていないかもしれないとキリルは思ったのだが、彼女はすでに知っていたようだ。キリルの行動に礼を言ってから、アオイは話を続ける。
「なんか空手のお師匠さん? に会いたくなったから帰るとか、よく分かんないこと言ってた」
「……なんだって?」
「ああ、えっと、弥也は子供の頃から空手っていうの習ってて、それを教えてくれる人に会いに行ったみたい」
キリルが異世界の事情に疎いと考えたアオイが丁寧に説明を加えてくれたことが、逆にキリルを刺激した。久方ぶりに感じる怒りが、腹の底から沸々と湧き上がってくる。キリルが黙り込んだことを不審がったアオイがどうしたのかと問いかけてきたが、彼女はすぐ「熱っ!」と叫んで飛び退くことになった。もしもアオイに魔力が見えていたら、キリルから立ち上った炎に似た揺らぎを目の当たりにしていただろう。
「あのヤロウ、全然諦めてねーじゃねーか」
「え? 何? ってか、熱いって!」
アオイが何か喚いていたがキリルはもう聞いていなかった。昨夜のヤヤとの会話が蘇り、腹立たしさが増して行く。あれほど新しい恋とやらを力説していた本人が未練タラタラでは説得力も何もない。
「殴りてぇ」
拳を握りしめてそう呟いた時、キリルはスッキリした。殴りたいなら殴りに行けばいいのだ。
「よし、」
瞬時に心を決めたキリルは拳を開き、踵を返した。だがすっかりその存在を失念していたアオイが追いかけて来て、少し後方から話しかけてくる。
「ちょっと待ってよ。さっきから何言ってんの?」
殴りたいとは一体何のことで、どこへ行くつもりなのか。アオイがそう問いかけてきたので、キリルは異世界に行くとだけ答えた。それが自分の生まれ育った世界だと察したようで、アオイはさらに言葉を重ねる。
「ってことは、殴りたい人って弥也?」
「あいつと、そのシショーとかいう奴」
「それは難しいと思うけど……って、なんでそんなことになってんの!」
アオイに腕を引かれて、キリルはようやく動きを止めた。面と向かって見ると、彼女が困惑顔をしているのが分かる。掴まれた腕を振り払いはしなかったが、キリルはアオイに手を離せと告げた。彼女は言われた通りにしたがキリルの前方に立ち塞がったところをみると、話を終わらせる気はないようだ。
「私が口出すことじゃないかもしれないけど、殴るとか聞いたらほっとけないよ」
説明して欲しいと、アオイは躊躇を見せながらも言葉を重ねる。別段胸裏を隠すこともないと思い、キリルは問いに対する答えを口にした。
「気に食わねーから殴りに行く。それだけだ」
「弥也が何かしたの?」
「別に。ただ、あの女がシショーって奴と会ってるのがムカつくんだよ」
「……それってどういうこと?」
キリルにというよりは自問のように呟いて、アオイは額に手を当てた。何かを必死に考えている様子のアオイを注視したまま、キリルは唇を結ぶ。しばらく沈黙が続いたがやがて、アオイが恐る恐る口火を切った。
「なんか、弥也のお師匠さんにヤキモチ焼いてるみたいに聞こえるんだけど」
「お前がそう思うなら、そうなんじゃねーの」
キリルが応えるとアオイは絶句してしまった。待っていても二の句が継げそうになかったため、キリルの方から話を進める。
「もういいか? さっさとあっちに行きてーんだよ」
「冗談……とかじゃないんだよね。キリルはそういうこと、言わないタイプだもん」
まるで頭の中を整理するように独白を零してから、アオイはキリルに目を向けてきた。キリルも無言で、アオイに真っ直ぐな目を向ける。しばし視線が絡み合った後、アオイがふっと笑みを浮かべた。
「変わってないんだね、キリル」
十年も経っていて何がどう変わっていないと言うのか、キリルは聞き返すことをやめておいた。どうせろくでもない理由だと思ったからだ。それよりも今は一刻も早く異世界に乗り込みたくて、キリルは投げやりな口調でアオイに声をかける。
「もう行くからな」
「うん。弥也、あれでけっこうモテるから。頑張って」
口の中で小さく「知ってる」と呟き、キリルはアオイに背を向けた。彼女と普通に話が出来たのは、ヤヤが言っていたことが正しいということなのだろう。どちらでも同じことならば追いかけていた方がいい。それが自分の性分らしいと、肚を決めたキリルは王城への道を急いだ。
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