etc.ロマンス 番外編 10 years later

BACK NEXT 目次へ



 天空に二つ浮かんでいる月を、少女は眺めていた。この世界の月は常に欠けることなく夜空にあって、その色味の変化によって季節が移ろっていく。夏月かげつ期である現在は雲一つなくて、毎夜変わらぬ良い月夜だった。室内からバルコニーに出たキリルはヤヤに許しを得てから彼女の隣に並ぶ。月が珍しいのかと尋ねてみると、ヤヤは頷いて見せた。

「月自体は珍しくないんですけどね。この世界の月は二つあって形が変わらないし、月明かりの色が違うから。そういうのは珍しいです」

 ヤヤの話を聞いたキリルは異世界の月を思い浮かべてみようとしたが、彼女の世界の月は見た覚えがなかった。比較対象がないのでは感想を述べることも出来ず、キリルは口を閉ざしたままでいる。そのうちに月から視線を移したヤヤが、キリルを見据えて言葉を続けた。

「夕食の後も帰らないの、珍しいですね」

 ヤヤの言うようにキリルは今まで、夕食を共にした後はエクランドの本邸に帰宅していた。それが今日に限って、こうして夜の時分もここにいる。話があるのだと、すでにヤヤは察しているのだろう。それでも彼女は直接的に問いかけてこず、話したいのならどうぞというくらいの間接的なスタンスでいる。まだ十代の少女とは思えない切れ味の鋭さを感じて、キリルは苦笑いを零した。

「貴方は、いい人ですね」

 キリルにとってそれは、心の底から出た言葉だった。しかし唐突だったためか、ヤヤは怪訝そうな表情になる。

「なんですか、急に」

「オレの気持ちに気付いたから気を遣ってくれた、そうでしょう?」

 問いかけに対し、ヤヤは口を開かなかった。返ってくる言葉がなかったからこそ、それは肯定の意だろう。互いに真意が知れたところで、キリルはヤヤに素朴な疑問を投げかけてみた。

「どうして言わなかったんですか?」

「誰かから聞いたわけでもないですし、違うかもしれないじゃないですか。まあ、違うなら違うで良かったんですけど」

 アオイ達と共に王都を見物した時、キリルが息苦しそうに見えたのだとヤヤは言う。それがアオイのせいならば引き離せばいいし、違う原因であっても誰かといれば少しは気が紛れるだろう。彼女がそうした思いで行動していたのだと知り、キリルは改めて言葉を失った。親しい間柄でもないのだから放っておけばいいものを、よくぞそこまで他人を気遣えるものだ。

「好き、なんですよね? 葵のこと」

 そこで初めて、ヤヤが憶測を確認してきた。どう答えるべきか、キリルは少し考えてから口を開く。

「好き、でした。もう十年前のことですが、全てを捨ててもいいと思うほどに」

 十年前を思い返しながら言葉にすると、当時の感情が少し蘇ってきた。始まりは歪だったが追いかけているうちに惚れてしまい、いつしか寝ても覚めても彼女のことばかり考えるようになっていたのだ。夢中、だった。その記憶は十年経った今でもはっきりと自分の中に刻まれている。

「昔の話です。最近では何故あんなに好きだったのか、自分の感情すら分からなくなっていました。それなのに貴方達の世界で再会した時、オレはアオイの顔を見た瞬間に好きだと思ってしまったんです」

 あの時に感じた衝撃を、キリルは忘れることが出来ずにいる。ヤヤとの会話から引き出された過去の些細な出来事も、そうだ。普段は思い起こさずとも忘れることはないのだろう。ミヤジマ=アオイという少女はキリルにとって、それほど特別な存在なのだ。そこまで明かした後、キリルは「ですが、」と言葉を加える。

「今オレが抱いている想いは過去と同じものではないのだと思います。アオイはハルとうまくやればいいと、思ってますから」

 それはハルから話を聞いて、至った結論だった。そのためハルにはもう悪い感情を残していないが、アオイとはそういうわけにもいかない。好きや嫌いでは割り切ることの出来ないわだかまりが溶解せず、平素の心持ちではいられないのだ。そうした自身の胸中を、キリルは初めて口にした。オリヴァーやクレアにさえ語っていない気持ちを明かしたのは、ヤヤが見せてくれた誠意に応えるためだ。ヤヤは黙って話を聞いていたが、やがてキリルが閉口すると、少し間を空けてから口火を切る。

「分かります」

「分かる?」

「あたしにも同じような人がいたんです」

 ヤヤの反応は予想外のもので、驚いたキリルは目を丸くした。キリルから視線を外しているヤヤは再び月を見ていて、その横顔には哀愁が漂っている。それは、自分が聞いても良い話なのだろうか。そう思ったキリルが言葉を継げずにいると、ヤヤの方から続きを語り出した。

「子供の頃からずっと、空手の師範が好きでした。でも、その人はけっこう年上で、あたしは眼中になかったんです。それでも、こういう気持ちって理屈じゃないんですよね」

 振り向いてもらえなくとも、追いかけてしまう。好きだと思えば止められなくて、求め続けてしまうのだ。そう語るヤヤに同調したキリルは顔を歪め、躊躇った末に口を開く。

「今もまだ、好きなのですか?」

「師範が結婚した時に、さすがに諦めました」

 月からキリルに視線を戻したヤヤは胸中の苦さを笑みで表現して見せた。そのやるせない微笑みを見た刹那、腑に落ちることがあったキリルは目を伏せる。彼女はキリルと同じ苦しみを味わった。痛みが分かるからこそ放っておかず、あれこれと気を遣ってくれたのだろう。キリルはヤヤのことを尖った親切の示し方をする人物だと評していたが、見え方が変われば受ける印象も変わる。彼女はただの、優しい女の子だ。そう思えば、ヤヤの話をもう少し聞いていたくなった。

「貴方はどうやって、失恋から立ち直ったのですか?」

 キリルの場合は失恋の後、その痛みを癒すまでに長い時間を要した。友人の援けも大きかったのでヤヤにもそうだったのかと尋ねてみたところ、彼女は何故かイタズラを企んでいるような表情で笑う。

「この話、葵にもしてないんです。黙っててくださいね?」

 ヤヤはなんでもないことのように言ってのけたが、キリルはあ然とした。アオイとヤヤがどれほど親しいのか知らないが、その口振りから察するに、彼女はたった一人で失恋を乗り越えたのだろう。何故援けてもらわなかったのかと尋ねてみても、ヤヤは「なんとなく」と言って笑っているだけだった。

「では、どうやって……」

「それはもう、新しい恋をするしかないですよね」

 これまたあっけらかんと放たれた科白に、キリルは開いた口が塞がらなくなった。キリルにはその発想はなく、失恋の後はもうこりごりだとしか思わなかったのだ。キリルが言葉を発せずにいると、ヤヤが楽しげに話を続ける。

「目から鱗が落ちた、って顔してますよ?」

「それでよく……、別の人を好きになろうと思えたと思いまして」

 もう、恋愛などしなくていい。逆に何故そう思わなかったのかと、キリルは問いかけてみた。するとヤヤは笑みを収め、真面目な表情で答えを口にする。

「恋愛って生きていくうえで必ず必要ってものでもないじゃないですか。失恋したって人生は続くし、恋してたって時間は流れてく。だったら恋してた方が楽しくないですか?」

 ヤヤの考えを聞いた時、キリルは未だかつてない衝撃に見舞われた。若さ故なのかもしれないが、なんと前向きな価値観だろう。キリルが経験した恋は喪失の重みばかりが際立ってしまっていたが、彼女の言う通り、楽しいと感じられる時間も確かにあったのだ。そう思えれば過去の恋も捉え方が違ってくる。まだヤヤの領域には届きそうもなかったが、この気持ちの延長線上に、彼女の言う新しい恋とやらがあるのだろう。

 十年も引きずっていたものが、たった一人の少女の言葉で見事に粉砕された。そのことがおかしくて堪らず、キリルは笑ってしまった。ヤヤにしてみれば突然のことで、彼女は何か変なことを言ったかと首を傾げている。そんなヤヤに心からの謝意を示し、キリルは二人分の紅茶を魔法で用意したのだった。





BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2020 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system