金木犀の香りに絆されて

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 その山では金木犀が赤黄色の花を咲かせていた。芳しい花の香りはまるで、山から立ち上るように漂っている。秋の気配に満ちた山中、群生している金木犀の傍には若い男が膝をついていた。

 うろこ雲の広がる青い空へ向け、男は悲痛な叫びを上げる。男から零れた冷たい涙は彼が腕に抱いている者の頬をも濡らした。

 無情な秋風が、やがて男の涙を乾かしてゆく。むせかえるように甘い金木犀の香りに包まれ、虚ろな男の瞳は腕に抱かれている者へと向けられた。








 秋、それは中村結衣にとって憂鬱な季節だった。金木犀が、香るからである。

 平凡な家庭で育った高校一年生の結衣には金木犀にまつわる忌まわしい過去などありはしない。にもかかわらず、結衣は幼い頃から金木犀が嫌いだった。

 結衣の金木犀嫌いは香りが好きではないという単純なものではない。秋になると劇的に香る金木犀の芳香を感じただけで吐気すら覚えるのだ。気分が悪くなると同時に目眩と頭痛までも併発する結衣の金木犀嫌いは、もはや病気のようなものだった。

「何なんだろうね、その金木犀嫌い」

 学校からの帰り道、結衣と並んで住宅街を歩きながら新田響子が言った。響子は小学校から同じ学校に通い続けている結衣の友人である。

 結衣の金木犀に対する拒絶反応は年を追うごとに過剰になっていき、小学五年生の時には体育の時間に倒れるほどだった。以来、結衣は秋の体育は見学である。響子はそういった事情を知っているので結衣の金木犀嫌いを『病気のようなもの』として見ているが納得はしていなかった。なにより結衣自身、理由の分からない拒絶は気持ちが悪いと思っていた。

 季節は巡るもので、今は秋である。香りが良いので庭木として好まれる金木犀はあちこちに咲いており、結衣にとっては登下校すら吐気や目眩との闘いだった。

「うーん……気持ち悪い……」

 ハンドタオルで口元を覆っていても吐気は容赦なく結衣を苛む。謎解きどころではないと判断した響子は青褪めた結衣を気遣いつつ携帯電話を取り出した。

「……もうしばらく続きそうだね」

 携帯電話のディスプレイを眺めながら響子はため息混じりに言う。彼女が見ているのは天気予報のサイトであり、そこには晴天マークが並んでいた。

 花を咲かせた後に雨が降ると金木犀はあっけなく散ってしまう。秋の長雨の言葉通り日本には秋雨前線というものがやって来るので金木犀が香っているのもそう長い間ではない。だが結衣には一瞬であろうと耐え難いものだった。

「雨……降れ」

 うろこ雲の広がる空へ、結衣は呪いの言葉を投げかけた。






 日射しは暖かいが風は冷たく、暑くもなければ寒くもない。秋とは、そうした気持ちのいい気候である。だが金木犀に拒絶を示す結衣がいるので中村家の秋は常に窓を閉め切っていた。

 金木犀が香らない家に帰った結衣はようやく一息つくことが出来た。一軒家の二階にある自室で制服から着替え、結衣は居間のソファに転がってテレビをつける。台所では専業主婦の母親が夕食の支度をしており、空腹を刺激する良い香りが漂っていた。だが結衣の至福の一時は帰宅した弟によってぶち壊しにされるのである。

「うわっ!!」

 夕食の匂いをも吹き飛ばす金木犀が強烈に香り、結衣は悲鳴を上げながら体を起こした。元凶は弟の久史にあり、帰宅したばかりで制服姿の彼にはオレンジ色の花弁が付着している。

「ちょっと久史!! どういうつもりよ!」

 抗議の声を上げたものの吐気と目眩に襲われた結衣は口元を覆って壁際へ下がる。騒ぎを聞きつけた母親が台所から姿を現し、キョトンとしている久史を見つめた。

「あら、金木犀。結衣も敏感ね」

 お母さんには分からなかったわと言う母親に向け結衣は恨みがましい視線を送った。結衣の金木犀に対する嗅覚は尋常ではないのだ。結衣と母親のやりとりを見ていた久史は事態を察し、嫌そうな表情を作りながら頭や肩を払った。

「まだ付いてたのか……ごめん、姉ちゃん」

 落としてきたつもりだったんだけど、と久史は言う。

 久史は思春期の少年にしては素直であり、わざわざ姉に嫌がらせをするような性質ではない。不意の出来事に怒りを露わにした結衣も我に返り、おずおずと久史に謝った。

「でも、どうしたの? 金木犀の花なんか付けて」

 母親が首を傾げると久史は渋面をつくって説明をした。

「家の前で頭からかけられたんだよ。あれ変質者だぜ、絶対」

 久史は唇を尖らせていたが花弁を頭から降りかけるとは気障な演出である。ずいぶんと風流な変質者であるが金木犀に異常な拒絶を示す結衣にとっては迷惑以外の何物でもなかった。

 久史の話をあまり真面目に聞いていない母親は床に散った金木犀の花弁を片付け居間を出て行く。二人きりになった後、久史は真剣な表情で結衣を見据えた。

「オレだったらから良かったけど姉ちゃんが同じことされたら死ぬだろ? 気をつけた方がいいぜ」

 久史の言葉は結衣に恐怖を抱かせた。金木犀の花を頭からかぶるということは結衣にとっては笑い事で済まされない。

「姉ちゃん、響子さんに電話しなよ。そしたらオレ、理由を話して迎えに来てくれるよう頼んでやるから」

「そんな大袈裟な……」

 結衣は躊躇したが久史があまりに真剣だったので言葉に詰まって頷いた。自室に置きっぱなしの携帯電話をとりに行くため、結衣は居間を後にする。

(私が金木犀嫌いだって分かってて久史に嫌がらせ? そんな、まさか、ねえ……)

 階段をのんびり上りながら結衣は苦笑する。だが姉思いの弟の顔を立てるためにも、結衣は自室へ戻ってから響子に電話をかけたのであった。






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