金木犀の香りに絆されて

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 久史が不審者に遭遇した翌日、事情を聞いた響子は結衣を迎えにやって来た。結衣とは小学生の頃からの付き合いである響子は中村家からそう遠くない場所に住んでいるのである。

「じゃあ響子さん、姉ちゃんのことよろしくお願いします」

 玄関先で響子に頭を下げ、久史はスポーツバッグと鞄を担いで家を飛び出して行った。彼は響子に直接お礼を言うために部活動の朝練習に遅刻したのである。

「いつもながら健気な弟ね」

 微笑ましさと呆れを同居させたような表情で響子が言う。花粉症対策のようにマスクで顔を覆った結衣は苦笑した。

「ごめんね、ありがとう」

「いいよ。じゃあ、行こうか」

 響子の声に促され、結衣は家を後にした。マスクをしているおかげで少し楽であり、結衣は並んで歩き出しながら響子に話しかける。

「久史が送り迎えよろしくって言ってたけど、いいからね。響子も部活あるでしょ?」

「今日は一緒に帰れそうにないけど、朝は迎えに来るよ。優しい弟君が歯がゆい思いをしないようにしばらくは付き合ってあげましょう」

 響子はからかうような素振りで笑ったがふと、真顔に戻って結衣を見つめた。

「それで、変質者ってどんな奴なの?」

「久史が言うには若い男なんだって。近所では見たことない人だって言ってた」

「ふうん。何だったんだろうね」

 響子は真面目な顔つきで考えに沈んだようだったが結衣はただのイタズラだろうと思っていた。結衣にとっては変質者騒動よりも行く手を阻む金木犀の方が大問題なのである。

「あー、もう、やだ。どうして住宅街ってこんなに金木犀があるの」

「そりゃ、いい匂いだからでしょ。それより、ちょっと急がないと電車に遅れるよ」

 響子が慌て出したので結衣も腕時計に目を落とした。時刻は七時四十五分、現在地から駅までは徒歩十五分であり、結衣たちの乗る電車は八時二分である。時間が迫っていることを認めた結衣はマスクの上から鼻をつまみ小走りになった。

「結衣、倒れないでよ。遅刻しちゃうからね」

 結衣より少し先を走る響子が念を押す。結衣は周囲の風景を確認しながら応えた。

「大丈夫、この先の金木犀を過ぎちゃえば駅までの道に金木犀ないから」

 金木犀嫌いの結衣にとって生活圏のどの位置に金木犀が植えられているかは重要な情報である。響子は呆れたようで何も言わずに先を急いだ。






 結衣の通う高校にも金木犀が植えられているので秋の学校は居心地の悪い場所である。なので、結衣は授業が終わると一目散に下校した。

 学校から駅までは徒歩十分ほどの道のりである。ここでもやはり金木犀が香っているので結衣はマスクの上から口元を手で押さえながら一人で歩いていた。

 駅までの道中、結衣は金木犀の傍に佇んでいる少年の姿を見かけた。この季節になると時たま見かける光景であったので結衣は違和感を覚えなかったが少し、心を奪われた。

(本当はいい匂いなんだろうなぁ……)

 思わず足を止め楽しむ人がいるほどに、金木犀は芳しい。だが結衣にはその香りを楽しむことが出来ないのだ。

 結衣はしばし足を止め金木犀と少年を眺めていたが強烈な芳香に吐気を誘われて立ち去った。その足で、結衣はドラッグ・ストアへと入る。意外と効果があることが判明したマスクを買い込み、結衣は店を後にした。

(あ……)

 ドラッグ・ストアを出た直後、結衣は駅前の雑踏に目を留めた。金木犀を眺めていた少年の姿を発見したからである。

(さっきの人だ)

 何とはなしに目で追いながら結衣は駅へ向けて歩き出した。件の少年はゆっくりと、結衣の前方を歩いている。

 それまで同じ方向へ向かっていたが少年が道を逸れた。すると、少年が赤信号であるにもかかわらず足を止めなかったので結衣は思わず駆け寄っていた。

 結衣に腕を引かれた少年は驚いた表情で振り返る。結衣は横断歩道へ向け一歩を踏み出してしまった少年を引き戻してから声をかけた。

「信号、赤ですよ」

 結衣にそう告げられた少年は信号機を見上げる。まだ赤であることを知った少年は結衣に向き直った。

「助かった。ありがとう」

 口調はぶっきらぼうながら少年の謝意はちゃんと結衣に伝わった。結衣はそこで改めて眼前の少年を観察した。

 少年は私服ではあるが結衣と同年代か、少し年上の印象だった。思いつめて自殺をするようなタイプには見えなかったので考え事をしていたのだろうと、結衣は憶測する。

「危ないですよ。気をつけてくださいね」

 あまり外に長居をしたくない結衣は少年に別れを告げた。だが歩き出そうとした結衣の腕を、今度は少年が引く。

「礼がしたい。そこのファミレスで何か奢らせてくれ」

 少年が近くにあったファミリーレストランを指したので結衣は少し考えた。悪いとは思ったが律儀な申し出を断れもせず、結衣は頷く。その後、結衣と少年はファミリーレストランへ移動した。

「花粉症?」

 席へ通され注文を済ませるなり、少年は結衣を指して言った。マスクをしたままであることに気がつき、結衣は外してテーブルの隅に置く。

「花粉症ではないんですけどね」

 答えながら結衣が顔を向けると少年は何故か驚いた表情をしていた。不可解な反応に結衣は首を傾げる。

「どうかしましたか?」

 結衣に問いかけられた少年は取り繕うように首を振り、話題を変えた。

「俺は横山拓海。大学生」

 少年が唐突に自己紹介をしたので結衣も名前を口にした。結衣が制服姿であるので近くの高校に通う生徒だということは言わずとも知れている。

「あの、横山さん」

 注文したオレンジジュースが届いてから、結衣は口火を切った。拓海は素っ気ない態度で応じる。

「何?」

「さっき、金木犀を見てましたよね?」

「ああ……」

 それまで結衣の顔に視線を注いでいた拓海はふっと、窓に顔を傾ける。注視され居心地の悪い思いをしていた結衣はホッとして返事を待った。

「人を、待とうかと思って」

 しばらくの沈黙の後、拓海は言った。待っていたのではなく待とうとしてやめたというニュアンスで受け止めた結衣は首を傾げる。しかし出逢って間もない人物に問うような内容でもないと、結衣は無言を貫いた。

「中村さん」

 窓から顔を戻した拓海は再び結衣に視線を注ぐ。拓海のまなざしが強いものであったので結衣は怯みながら応えた。

「はい。何ですか?」

「金木犀、嫌いなの?」

 結衣は金木犀が嫌いである。だがそのことを拓海に話した覚えがなく、結衣は怪訝に眉根を寄せた。

「嫌いと言うか……金木犀の匂いで気持ち悪くなっちゃうんです。理由は分からないんですけどね」

「……そうか」

 小さく呟いた拓海は哀しそうに顔を歪ませた。拓海の表情の意味が分からず、また少し気味が悪いと感じた結衣は時計を気にする振りをして別れを切り出した。

「あの、私そろそろ帰ります。ごちそうさまでした」

「待って」

 席を立とうとした結衣を拓海の強い声が制した。腰を浮かせかけたままではいられず、結衣は思わず座りなおす。拓海は真っ直ぐに結衣を見つめたまま唇を開いた。

「明日、同じ時間にここで待ってる」

「どういう、意味ですか?」

 困惑した結衣が問うと拓海は真顔のまま答えた。

「また、会いたい」

 ただの親切が思いも寄らぬ展開に陥り、結衣は呆然とした。だが結衣には再び拓海と会うつもりはなかったので荷物をまとめて席を立つ。

「そういうの困ります。すみません」

 頭を下げた後、結衣は拓海の顔を見ずにファミリーレストランを後にした。






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