明け方の冷気に晒された結衣は目を開けた。一人ベッドで寝ていた結衣は体を起こし、冴えない頭で状況を確認しようと周囲を見渡す。室内に拓海の姿を見つけた結衣は即座に覚醒した。
「起きた?」
壁に背を預けて床に座り込んでいる拓海が涼しい表情で問う。結衣は頷いて見せた後、気まずさから視線を逸らした。
結衣の反応を見た拓海は小さくため息をつき、立ち上がる。ベッドの傍へ行き、拓海は結衣の手をとった。
「結衣」
拓海ははっきりと結衣を呼んだ。触れている手が熱く、結衣は顔を上げられないまま口唇を引き結ぶ。重ねた手に力をこめ、拓海は言葉を続けた。
「あんなことしといて今更何だけど、俺と付き合ってくれ」
結衣は激しい動揺に見舞われたが小声で即答した。
「やだ」
「何だよ、まだ怒ってんの?」
「そうじゃ、なくて……」
きちんと気持ちを伝えなければならないと思った結衣は意を決して顔を上げた。ベッドの脇にしゃがみこんでいる拓海は少し困った表情を見せている。結衣は拳を握り、拓海の手をやんわり退けてから口火を切った。
「もう怒ってない。でも、横山さんにはヨウって人のことを好きな気持ちがあるんでしょ?」
「……ないって言ったら嘘になるな」
「でしょ? そのヨウって人が私の前世なんだとしても私には記憶がないから他人としか思えない。そういうの、嫌なの」
拓海と同じように前世の記憶があったなら。そう思わないこともなかったが、結衣にはそれはそれで癪だという気持ちがあった。
「言いたいことは分かるけどさ……」
ベッド下に腰を落ち着けた拓海は所在無く頭を掻く。だが拓海はすぐに顔を上げ、真っ直ぐ結衣を見据えた。
「そんなの、記憶があるんだからどうしようもないだろ?」
「どうしようもなくても嫌なものは嫌なの」
「だったら何で抵抗しなかったんだよ?」
痛いところを突かれた結衣は答えに窮した。同時に恥ずかしさも蘇り、結衣は顔を伏せる。小さく息をついた拓海は再び結衣の手をとった。
「結衣が覚えてないのは辛い記憶だからだと思う。鞭で打たれたりとか殺されたりとか、そんな過去は覚えてない方がいいよな。だから結衣が何も覚えてないって分かった時、半分ホッとして同じくらいガッカリした」
「だから、そんなこと言われても……」
覚えてないものは仕方がないと言おうとして結衣は口をつぐんだ。不意に訪れた沈黙を訝った拓海は眉根を寄せる。
「何か思い出した?」
「……横山さんの体温が懐かしい、って言ったら変ですよね?」
「抱かれた感触だけ覚えてんの?」
拓海の呆れ顔を見た刹那、結衣は言わなければよかったと後悔した。拓海はベッドに座り、あまりの恥ずかしさに頭を抱えている結衣を引き寄せる。
「そんな強烈な記憶があるんなら俺に記憶があることも許してくれよ」
「やだ。許さない」
「あんまり意地張ってると押し倒すぞ」
耳元で脅しが囁かれたので結衣はベッドの上で後ずさった。しかし簡単に捕らえられ拓海の腕のなかへ引きずりこまれる。拓海の高い体温に安堵を覚えてしまった結衣はもうダメだと思った。
「……横山さん」
「何?」
「赤信号にも気がつかないほど何を考えてたんですか?」
「ああ……」
短い沈黙があった後、拓海は体を離して結衣の顔を見ながら答えを口にした。
「中村結衣にどうやって声を掛けようか考えてた。だから、ファミレスで結衣がマスクとった時は驚いた」
結衣はふと、初めて拓海を見かけた時のことを思い出した。拓海が金木犀の前で足を止めていたのは、迷っていたからなのだろう。
「……ヨウって、どんな人だったんですか?」
結衣の問いかけに拓海は首を傾げながら答えた。
「奴隷で、顔は結衣そのままで……」
「そうじゃなくて、性格の話です」
「ああ、性格ね。奴隷だからってのもあるんだろうけど大人しい女だった」
「私の性格、大人しいと思いますか?」
「それはない」
結衣の問いかけに対し拓海は考えるまでもないといった様子で即答した。拓海の返答が明快であったので結衣は吹き出す。
拓海の部屋では外では花を散らしてしまった金木犀が甘い芳香を放っている。だが今度は惑わされることなく、結衣は自分から拓海の首に腕を回した。
「もう一度、私に告白してくれたら考えます」
「そういう高飛車なところも
笑いを堪えながらも拓海は結衣を抱きしめる。結衣の耳元へ口唇を寄せ、拓海は幾度目かの甘い囁きを口にした。
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