拓海はまず、自分の前世は中国の豪商の嫡男だったと告白した。急に話が胡散臭くなったと感じた結衣は反射的に眉根を寄せる。結衣の反応を見た拓海は大きくため息をついた。
「だから言いたくなかったんだよ」
拓海が頑なに話すことを拒否していた理由に納得した結衣は思わず頷いた。拓海は嫌そうな表情をしながらも話を続ける。
「時代はたぶん、唐とかの頃。文献を調べたらよく似てた」
「トウって……遣唐使の?」
「そう、その時代」
「そういうのって、えっと、前世の記憶があるってことですか?」
「途切れ途切れだけどな」
余談として、拓海は母親の胎内にいた時の記憶まであるのだと言った。記憶力が良いとは言えない結衣は漠然と生命の神秘に思いを馳せる。だが考えても分からなかったので結衣は話を戻した。
「それで、私はどう関わってくるんですか?」
「俺の前世は
「どれい?」
結衣はおもむろに顔をしかめた。これが貴族の娘であればロマンもあるが奴隷では夢も幻想もない。
「それが私だって何で分かるんですか?」
前世が奴隷であることを否定したかった結衣は拓海に噛み付いた。拓海は無表情のまま答える。
「顔がそのまま。それに、何て言うか、魂の色みたいなもので分かる」
再び現実を逸した話になったので結衣はついていけなくなった。拓海は花瓶に視線を移し言葉を続ける。
「中村さんが金木犀を嫌がる理由もそこにある」
「あ、そうですよ。その話をまだ聞いてませんでした」
話題が身近なものになったので結衣は興味を示して拓海に説明を促す。拓海は言い淀んでいたがやがて、決意したような顔を結衣に向けた。
「中村さんの前世の名前は
殺されたという件を聞いた時、結衣は無意識に胸に手を当てた。いつの間にか鼓動が早くなっており、結衣は慌てて手を退ける。
「そのヨウって人は金木犀の近くで死んだんですか?」
「金木犀の下で、胸を突かれて死んでた」
淡白な拓海の言葉を聞いた結衣は公園で倒れた時のことを思い返していた。息が出来ないほど胸が痛くなったのも金木犀に吐気を覚えるのも、そう考えれば合点がいく。
(……なんだ、そういうこと)
納得した途端、結衣の心は急速に冷めていった。拓海が心配していたのも、自責に駆られていたのも、中村結衣のためではない。結衣の心を動かした涙さえ中村結衣という人物に向けられたものではないことが判明したが、結衣にはまだ釈然としないことがあった。
久史に責められた時の拓海の態度は身に覚えがあると言っているようなものだった。結衣がそのことを問うと拓海は頷くでもなく視線を泳がせる。しかし間を置いた後、拓海は答えた。
「ある時突然、分かったんだ。中村さんの名前とか、家とか。それで、どうしても会いたくなって……」
大学を休学し、この部屋を借りたのだと拓海は言った。久史に金木犀の花を振りかけたのも結衣に思い出して欲しかったからだという。そこまで明かした後、拓海は口元を自嘲に歪めながら結衣を見た。
「劉起って男は口に出せないだけで本当に耀を愛してた。金木犀の下で落ち合う約束してて、耀に会ったら気持ちを言葉にして伝えるつもりだったんだ。でも結局、言えなかった」
憂いと愛おしさが混ざったような拓海の表情に結衣は反発を覚えた。今こうして、中村結衣と向き合っていながらも拓海は結衣のことなど見ていないのだ。
「俺が前世の記憶を持ってるのも中村さんのことが分かるのも、たぶん劉起が後悔してるからだと思う。バカだよな、気持ちなんて言葉にしなきゃ伝わらないのに」
前世の記憶がある拓海には結衣が耀として映っているのかもしれないが、結衣が出逢ったのは横山拓海である。前世の記憶などない結衣にとって耀は見知らぬ他人であり時を超えた再会などではないのだ。
「中村さんにも思い出して欲しかった。でも、もういい。だけど一度だけ言わせてくれ」
愛してる。拓海がそう告げた時、結衣は身代わりにされたと感じた。
(ひどいよ、横山さん)
目が回るような初めてのキスも、まごころをこめた愛の告白も、全ては結衣の知らない耀という女に向けられたもの。抱きしめられて安心していた自分にも憤りを感じ、結衣は立ち上がった。
「バカじゃないの」
俯いたまま吐き捨て、結衣は玄関を目指して歩き出した。結衣の急変に狼狽した拓海は慌てて制する。
「何処行くんだよ」
「帰る」
拓海の腕を振り払った結衣はにべもなく答えた。結衣は再び玄関を目指したが拓海が引き止める。
「待てって。そんな格好で帰る気かよ」
「離してよ!」
「落ち着けって!」
結衣が暴れたので拓海は力任せに結衣の体を壁に押し付けた。一瞬だけ回った視界が定まった結衣はテーブルの上に置かれた金木犀に目を留める。忌まわしい記憶を植えつけられた花を、結衣は睨み見た。
「なに怒ってんだよ?」
拓海の顔が目前に現れたので結衣は睨んだまま焦点を合わせる。本当に分からないようで拓海は困惑顔をしていた。
「どうして分からないの!?」
憤りを言葉にした途端、結衣の目からは涙が零れ落ちた。肩を押さえつけている拓海の手を払い除け、結衣はその場に崩れ落ちる。
「ヨウなんて知らな……ひど……」
突然の涙と嗚咽混じりで聞き取れない結衣の言葉に動揺した拓海はおもむろに取り乱した。
「えっ、何? 何だって?」
「私はヨウの代わりじゃない!!」
手で顔を覆っているので結衣の声はくぐもっていたが、さすがに拓海にも聞き取ることが出来た。拓海は目を瞬かせ、結衣が何を言っているのか理解すると真顔に戻った。
「……そっか。そうだよな」
それまで呆然と立ち尽くしていた拓海は膝を折り、泣いている結衣を引き寄せる。抱きしめられた結衣は必死に押し退けようとしたが拓海は離さなかった。
「いやだ! 離してよ!!」
「結衣」
「いや!!」
「好きだ」
「信じない!!」
結衣は尚も抵抗を続けたが力で敵うはずもなく冷たい床に押し倒された。執拗なまでにくりかえされる結衣への「好きだ」という言葉とキスに、結衣の体からは力が抜けていった。
(また……)
室内には金木犀が香っている。甘い芳香に絆された結衣の心は次第に融けてゆき、何もかもをどうでもよくさせた。
「結衣、好きだ」
囁きが甘く、思考を麻痺させる。結衣は目を閉じ、拓海の熱い体に自ら縋った。
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