金木犀の香りに絆されて

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 秋晴れの空には今日もうろこ雲が浮かんでいる。きっちり閉まっている自室の窓から空を眺めている結衣はぼんやりと昨日の出来事を思い出していた。

 公園で倒れ意識を取り戻した後、結衣は拓海に送ってもらって帰宅した。その時の結衣は頭が冴えず考えるということが出来なかったが、一夜明けて冷静になってみればとんでもない記憶であった。

(キス、されちゃった……)

 それも熱烈に、何度も。結衣は思わず頭を抱えたが、それはキスの余韻によるものだけではなく拓海の言葉を思い返しての行動だった。

(思い出すって何?)

 拓海にそのようなことを言われる覚えが結衣にはない。いくら考えてみても答えは出ず、結衣は悶々としていた。

 分からないのであれば知っていそうな者を問い質せばいい。結衣は何度も携帯電話を手にしたが襲われたという事実があるので電話をかけられずにいた。キスの翌日という経験が結衣には初めてのことだったのである。

 しかし結衣の葛藤は突然の着信音によって終わりを告げた。ディスプレイに表示された名前を見た結衣は一瞬躊躇したが意を決して通話を始める。

「もしもし」

『横山だけど、中村さん?』

 電話越しではあるが拓海の声を聞いた結衣は目眩を覚えた。ちょうどベッドに座っていたので結衣は体を倒しながら応じる。

「はい。中村です」

『体、大丈夫?』

「はい。平気です」

『そっか。なら、良かった』

 携帯電話の向こう側で拓海は安堵の息を吐く。涙ながらに気遣う拓海の姿を思い出した結衣は顔が熱くなった。心臓が高鳴ったので胸に手を当て、結衣は困惑する。

(やだ、何で……)

 結衣は拓海のことを「不気味な人」もしくは「怖い人」として見ていた。その彼の声を聞いただけで何故、胸が高鳴るのか。

 混乱に陥った結衣は言葉を発することが出来ず無意識に息を殺す。拓海もしばらく無言でいたが、やがて彼は結衣を現実に引き戻す一言を放った。

『色々、ごめん。もう連絡もしないから安心してくれ』

 一気に目が覚めた結衣は胸の高鳴りに代わって怒りを覚えた。

「何ですか、それ」

『……えっ?』

 拓海の声は困惑していた。だが相手を気遣う余裕もない結衣はおもむろに怒りをぶつける。

「さんざん勝手なことしといて今更何なんですか。大体、私はまだ何も聞いてないんですよ?」

『それは、その……』

「電話じゃ嫌です。会って話しましょう」

 怒り心頭に発した結衣は拓海に現在の居場所を聞き出した。すると拓海が中村家の近所にいることが判明したので結衣は通話を打ち切って家を飛び出した。

 家を出た途端に香ってきた金木犀に気分を害されながらも結衣は拓海の姿を探して近所をうろついた。目当ての人物はすぐに見付かり、結衣は拓海を促して近くの河原へと移動する。ベンチに腰を下ろして初めて、結衣はいつの間にか気分の悪さがなくなっていることに気がついた。

(そういえば……)

 自分が傍にいれば結衣が金木犀に酔わずにすむと、他ならぬ拓海が言っていた。そのことを思い出した結衣は後ろめたそうに視線を外している拓海の横顔をじっと見据える。

「横山さん」

 結衣に呼ばれた拓海は小さく体を震わせた。恐怖に縛られている拓海の様子を怪訝に思いながら結衣は眉をひそめる。しかし容赦はせずに問い詰めた。

「もう連絡しないって、どういうことですか?」

 拓海はしばらく無言でいたがやがて、重い口を割った。

「俺が近くにいるとまた、倒れるかもしれないから」

「私が? どうしてですか?」

「それは……言えない」

「ちゃんと説明してくださいって何度も言ってるじゃないですか」

「ごめん。でも、もう会わない方がいい」

「勝手よ。さんざん引っ掻き回しておいてそれはないでしょ!?」

 いつしか結衣は声を荒げていた。拓海は驚いた表情で顔を上げ、怒りに頬を紅潮させている結衣を凝視する。

「……そんなに怒ると思わなかった」

 拓海の呟きを聞きつけた結衣は我に返った。結衣の言動はまるで拓海を繋ぎとめておこうとしているようである。

「俺のこと警戒してただろ? 警戒させるようなことしたから仕方ないけど。だから、連絡しないって言ったら中村さんが安心するかと思ったんだけど……」

 怪訝そうに眉根を寄せている拓海は結衣の顔色を窺いながら言う。言葉に窮した結衣は視線を泳がせ、ちょうど目にした金木犀を言い訳にした。

 結衣は金木犀が咲く季節になると襲われる眩暈や吐気について拓海に詳しく説明をした。もはや「病気」のような症状も拓海が傍にいれば表れないので突然いなくなられると困るということを強調し、結衣は口をつぐむ。拓海は黙って耳を傾けていたが話が終わると小さく息を吐いた。

「そんなに酷いのか」

「だから、その、金木犀の咲いている間は傍にいてくれると助かるんですけど……」

「金木犀が散るまで、か」

 独白した拓海は自嘲気味に口元を歪め秋晴れの空を仰いだ。結衣の家がある住宅街には金木犀がたくさん植えられているので甘い香りは河原にまで流れてくる。拓海はやがてわかったと呟き、それきり口をつぐんでしまった。






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