金木犀の香りに絆されて

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 金木犀の花を頭から降りかける不審者騒動から四日目の朝、例によって響子は中村家まで結衣を迎えに来た。本日も晴天のため、結衣はマスク姿である。

「今年は長いね」

 不意に響子がそんなことを言ったので結衣は横を歩く友人に視線を傾けた。響子の目は庭木の金木犀に向けられていて結衣は嫌な表情をつくって頷く。未だに金木犀が散らないのは雨が降らないからだった。

 考えを巡らせながら、結衣はぼんやりと空を見上げた。秋晴れの空には相も変わらずうろこ雲が浮かんでおり、風は日々冷たくなっている。結衣は響子に昨日の出来事を話してはいなかった。

 横山拓海は結衣の英語のノートに携帯電話の番号とアドレスを記した。念を押す言葉こそなかったが、それは「連絡をくれ」ということに他ならない。結衣は響子に悟られないよう密かにため息をついた。

(あの人、何か怖いしなぁ……)

 拓海の言動は奇妙であり、結衣には彼の行動を読むことが出来ない。いくら身構えていても力では勝てるはずもなく、結衣は身の危険を感じていた。

 だが、拓海の発言は意味深長である。昨日の話し合いがさらに謎を深めるものであっただけに、結衣は拓海とちゃんと話をしたいとも思っていた。

「結衣? 気持ち悪いの?」

 黙々と歩を進める結衣を心配して響子が声をかける。別の意味で気持ちが悪いよと胸中で呟いた結衣は響子に渇いた笑みを向けた。






 一日中悩んだ挙句、結衣は拓海に連絡をすることにした。授業を終えてすぐ電話をした結衣は拓海と落ち合う場所を決め、足早に学校を後にする。

 拓海が指定してきたのは結衣の学校の近くにある公園だった。この公園は住宅街の中にあるような小さなものではなく、人工池などがある森林公園のような造りをしている。ここでも嫌と言うほど金木犀が香っており、結衣は気分の悪さを覚えながらも待ち合わせ場所へと出向いた。

 人目につきにくいベンチにはすでに拓海の姿があった。ベンチの脇には金木犀が花を咲かせていたが結衣はふと、首を傾げる。

(あれ……?)

 つい先程まで感じていた吐気が失せ、結衣の体調は突然良くなった。それはあまりにも急激な変化であり、結衣は周囲を見回してみる。だが理由となりそうなものは何も見当たらなかった。

「中村さん」

 結衣の姿を認めた拓海が立ち上がって声を上げる。顔を戻した結衣には拓海の姿が揺らいで見えた。

(誰?)

 結衣を呼んでいるのは横山拓海である。顔は確かにその人物であったが服装や髪型が奇異だった。裾の長い袍に冠という教科書で見るような出で立ちは明らかに現代のものではない。

「どうかした?」

 拓海に声をかけられた結衣は首を振って見せた後、ベンチに腰を落ち着ける。隣に座った拓海の姿は現代の若者であり、結衣は疑問を残しながらも話を切り出した。

「横山さん、訊きたいことがあるんですけどいいですか?」

「分かってる」

 拓海が即答したので自ら話してくれるものだと思った結衣は口をつぐむ。しかし拓海も黙ってしまい、なかなか説明をしようとはしなかった。結衣は重い息を吐き、ベンチの脇に植えられている金木犀を仰ぎ見る。気分も良かったので結衣はマスクを外した。

 小さな花をたくさん咲かせている金木犀からは甘い香りが漂っている。だが近くで嗅ぐとただ甘いだけでなく、酸っぱさのように鼻をつく匂いが混ざっていることを結衣は初めて知った。

(甘酸っぱい匂い、って言うのかな……)

 不思議な満足感に包まれた結衣は隣に人がいることを失念していた。そんな結衣の様子を真顔で見つめていた拓海は何気なく口を開く。

「気分、悪くないの?」

「今日は大丈夫みたいですね」

「……俺がいるからか?」

 半ば呆けながら応答していた結衣は拓海の独白を聞きつけて顔を戻した。

「横山さんのせいなんですか?」

「俺のせいには違いないな」

「……横山さん、一人で納得してないで私にも分かるように話してくださいよ」

 結衣が眉根を寄せると拓海は視線を逸らす。連絡をするよう仕向けておきながら拓海の態度はあんまりなものであり、腹が立った結衣は鞄に手をかけた。すぐさま拓海が腕を伸ばし、結衣の手を押さえつけて留める。思わせぶりな態度に不満が募っていた結衣は拓海を睨み付けた。

「何なのよ! 結局話してくれないじゃない!」

 結衣は怒りを露わにしたが拓海は落ち着き払って言った。

「話すより思い出した方が早い」

 そう告げたかと思うと拓海は結衣を引き寄せた。慣れた手つきで結衣の顔を上げさせた拓海はそのまま、口唇を重ねる。結衣はしばし呆気にとられていたが事態を把握すると暴れ出した。

「やめてよ!! 何するの!」

 だが抗議は無視され、拓海は再び結衣の口唇を奪う。金木犀の甘い香りが漂うなか、幾度も口唇を食まれた結衣は次第に脱力していった。

 その時、結衣の心と体を支配していたのは拓海のキスではなかった。金木犀の強すぎる芳香が結衣に胸苦しさを感じさせ、やがてそれは痛みに変わった。

 拓海を押し退けた結衣はベンチから滑り落ち、胸を押さえて蹲る。息も出来ないほどの痛みが思考と体の自由を奪い去り、結衣はその場に倒れ伏した。






 秋が深まる山のなか、群生している金木犀がいっせいに花を咲かせていた。赤黄色の花からは芳香が漂い、周囲に甘い香りを振り撒いている。

 金木犀の香りに満たされた山中では一人の男が膝をついている。男の頬や手には血がこびりついており、彼は虚ろに泣いていた。

 男は幾度も声を上げた。時には囁くように優しく、時には吼えるように強く、腕に抱いている者と天に向けて悲鳴を聞かせ続けている。だが天も、男が腕に抱いている者も答えず、彼は独りであった。

 美しい風景にそぐわない狂人の姿を結衣はすぐ傍で見つめていた。絶望が滲む男の顔は結衣にも覚えのあるものだったが彼は結衣に気がつかない。男の意識は彼が腕に抱いている女にのみ向けられていた。

 男に掻き抱かれた女は胸から血を流しており、すでに絶命している。結衣は女の顔へ視線を傾けたが見ることは出来なかった。隠れているのでもなく、結衣には認識が出来なかったのである。

 結衣の見つめている光景は少しずつ不確かなものになっていき、やがて見えなくなった。次に映し出されたものは月と、横山拓海の顔だった。

「……横山、さん?」

 うわ言のように細い結衣の声を聞いた拓海はおもむろに顔を歪ませた。拓海の頬を涙が伝い、彼は結衣を抱き寄せる。

 現実でも香っている金木犀が意識を混濁させていて結衣には何が起きているのか分からなかった。半ば無意識に、結衣は肩口にある拓海の髪に触れる。

「どうして、泣いてるんですか……?」

 嗚咽を堪えている拓海からは返答がなかった。結衣は短く息を吐き、空に浮かんでいる月をぼんやりと見つめる。夜気が体を冷やしていたが熱いほどの拓海の体温が心地よく、結衣は目を閉じた。

(あ、なんか……)

 懐かしい。そう、結衣は思った。

「もう、いい。こんなことになるなら……」

 拓海が不意に発した声には激しい後悔が滲んでいた。自責の念に駆られている拓海に返すべき言葉もなく、結衣はただ時の流れに身を任せていた。






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