金木犀の香りに絆されて

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 月曜日の夜に降り出した雨は火曜日も続き、水曜日はどんよりとした曇り空だった。今にも雨が降り出しそうな放課後、傘を持ってきていないにもかかわらず結衣は窓際の他人の席からぼんやりと外を眺めていた。

 一年生の教室は四階にあるので、結衣のクラスからは周囲の風景がよく見える。グラウンドは雨に濡れ部活動の生徒もいないのでひっそりとしており、下校のラッシュも過ぎたので校門の辺りも閑散としていた。もちろん、そこに拓海の姿はない。

 結衣は窓際から離れ、自分の席に戻って腕に顔を沈めた。重いため息が自然と零れたので目を閉じる。

(やだなぁ……)

 傍にあったものが消える。そのことが結衣に寂しさを抱かせていた。

 携帯電話のバイブレーションを感じた結衣はへばりついていた机から離れた。ディスプレイにはメールの着信が表示されており内容は、今何処にいるのかを問う響子からのものだった。

 結衣はゆっくりと携帯電話のボタンを押し、教室にいると返信した。すると響子が現れ、彼女は結衣の顔を見た途端眉根を寄せる。

「暗いよ。何かあった?」

 尋ねてくれた響子に感謝をしながら結衣は月曜日の出来事を語った。話を聞いた響子は天井を仰いだ後、呆れを含んだ視線を結衣に向けた。

「久史君が怒るのも当然だよ。あの横山って人、怪しすぎ」

 返す言葉が見当たらなかった結衣は苦笑を浮かべた。

 確かに、拓海の言動は怪しい。そして本人が認めているあたりにも問題がある。だが一番の問題は結衣が怪しいと思えなくなってきていることだった。

「結衣さぁ、何か思い当たることとかないの? 子供の頃に会ったことがある、とかさ」

 本が好きな響子はミステリーによくあるじゃんと言った。響子が言うようなことには覚えがなかったが、あることに思い当たった結衣は話しかけて慌てて口を閉ざす。

(抱きしめられる感触に覚えがあるなんて……絶対言えない)

 熱いくらいの拓海の体温を思い出した結衣は顔を赤らめた。だが響子に突っ込まれることを恐れ、すぐに血の気が引く。いくら教室内が暗いとはいえ結衣の態度は不自然であり響子が眉根を寄せた。

「何か隠してない?」

 すかさず疑問を口にする響子に詰め寄られた結衣は苦し紛れに顔を背けた。窓の方へ顔を向けた結衣はふと、降り出した雨に濡れているグラウンドに視線を留める。体育の時間に倒れた日の光景が唐突に蘇り、結衣は真顔に戻って響子を振り返った。

「そういえば、変なもの見た」

「変なもの?」

 身を乗り出していた響子が首を傾げながら席へ戻ったので結衣は安堵して話を続ける。

「先週の水曜だっけ? 私が体育の時に倒れたの」

「五時間目の体育だから……そうじゃない?」

「あの時、金木犀の近くに変な人がいるの見た」

 どうして今まで忘れていたのか結衣は自身の記憶を訝しく思った。冠に裾の長い袍という出で立ちの男だということまでは思い出したが顔は、霞がかかっているかのようにはっきりとは見えない。

「幽霊?」

 結衣から詳細を聞いた響子がぼそっと、独白のように呟いた。雨が降り出して薄暗い校舎はそういったものが出てもおかしくない雰囲気を漂わせており結衣は体を縮める。言い出した響子も鳥肌が立ってしまったようで、しきりに二の腕をさすっていた。

「帰ろう、かぁ」

 響子が努めて明るく言い出したので結衣は鞄に手をかける。その後、二人は脱兎のような勢いで学校を後にした。






 自宅へ戻った結衣はベッドの上で考えを巡らせていた。内容は別れ際に響子が放った一言について、である。

『前世の記憶とかさ、そういうやつじゃないの?』

 学校からの帰り道、二人で考察した結果の響子の言葉である。結衣は前世というものを信じていなかったが、そう考えてみれば頷けることが幾つかあった。

 拓海は結衣のことを知り合う以前から知っているのだと言っていた。そして何より、彼は思い出せと結衣に言ったのである。

(でも、そんな、まさか、ねぇ……)

 何度考えてみても前世の記憶などない結衣にとっては世迷言だった。だが金木犀に拒絶反応を起こす理由が過去にあるのならば無視することも出来ない話である。それに、結衣は拓海に会いたかった。

 鞄から携帯電話を取り出しベッドへ戻った結衣はディスプレイを見つめた。たった一度の操作で画面には拓海の番号が映り、あとは通話ボタンを押すだけである。

 たった二日で約束は効力を失ってしまい、結衣にはもう口実が見当たらない。この電話をかけるのであれば気持ちを語るしかなく、結衣は躊躇した。

「姉ちゃん、ちょっといい?」

 不意のノックと共に久史の声がしたので結衣は慌てて携帯電話を枕の下に追いやった。結衣の返事を受けた久史はすぐに姿を現したが何故か、彼の顔色は優れない。

「どうかした?」

 結衣が首を傾げると久史は床に座り込んで頭を下げた。

「ごめん。余計なことした」

「え? 何が?」

 結衣には何を謝られているのか分からなかったが久史は呆れたような顔を上げた。

「あの変質者、姉ちゃんと知り合いだったんだろ?」

「ああ、横山さんのこと」

 ようやく納得した結衣は曖昧に頷き、それから久史に苦笑を向けた。

「久史は何も悪くないよ。気にしなくていいから」

「だって……姉ちゃん、あれからずっと凹んでるから」

 自覚があるだけに結衣には返す言葉がなかった。胡坐をかいた久史は決まりが悪そうに顔を背けながらも再び口を開く。

「姉ちゃん、男の趣味悪いよ。弟に第一印象で最悪なイメージ植えつけるような奴と付き合うのはどうかと思うけど」

 久史はぶつぶつ文句を零す。独白に見せかけながらもしっかり聞こえるように言っているので結衣は吹き出した。

「そんなんじゃないって」

「なんだ、まだ付き合ってもいないのかよ」

 結衣の返答を聞いた久史は半分呆れ、半分は拍子抜けしたといった顔をした。誤解されてもおかしくない光景を久史には見せているので結衣はちゃんと説明をしようと口を開く。おおまかな話を聞いた久史は胡散臭そうに顔を歪めた。

「好きじゃないなら何で凹むんだよ」

 結衣は久史の顔を見つめたまま瞬きをくり返した。言われてみればまったくもってその通りであり逃げ場を失った結衣は仕方なく苦笑して見せる。

「うん、そうだね」

「姉ちゃん、頼むから弟にあんまり心配かけないでくれよ」

 付き合っていられないといった口ぶりで言い置き、久史は出て行った。静まった室内で結衣は一人、枕に顔を傾ける。しばらく考えた後、結衣は携帯電話に手を伸ばした。






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